元機織りの娘のツルヨちゃん

青杖まお

私が曽祖母から聞いた話

 私の曽祖母は戦時中のことも経験している、御年93歳の御長寿さんです。

 今回はその曽祖母から貴重なお話を頂けたので、これが少しでも多くの人の目に留まったらと思い、聞いた話を拙いながらに纏めることに致しました。


 私が主に聞いたのは、曽祖母の故郷での子供時代の話でした。





 曽祖母の産まれた町は、機織りがとても盛んな町でした。

 曽祖母はその町の家で四人兄弟の三番目として産まれ、ツルヨと名付けられました。



 小学校時代の曽祖母は学校が終わると、すぐに機織はたお工場こうばへと向かったそうです。同じ町の子供たちと一緒に、母親たちの働く工場を手伝うんです。そこでは地元全体で機織り工場を回していて、働くのに大人も子供も関係ありませんでした。

 ただ、機織りをするのは常に女の役目です。


 ツルヨちゃんは小学校卒業と同時に、機織り工場で働くようになります。その頃の義務教育は小学校六年生まででしたから、当時としてはあまり珍しくなかったと曽祖母は言います。



 町からは機織りの音が毎日、毎日。そこら中から聞こえてきます。それは朝から晩まで鳴り続けました。


 ばたん、ばたん、ばたん。

 がしゃん、がしゃん、がしゃん。


 曽祖母の家に機織り機はないのですが、曽祖母は今でもこの音が「鳴ったかな?」と感じる時があるんだそうです。起床時に感じることが多いので、夢に出てくるぐらい耳に残っちゃってるんだろうねぇ、と曽祖母は笑っていました。




 機織りには『そうこ』と『ひ』という道具を使ったそうです。

 調べてみると、漢字変換では『綜絖そうこ』と『』でした。


 大きな台のような綜絖そうこに縦糸となる糸をまっすぐ垂らしては、手のひら程度の大きさのに横糸となる糸をぐるぐると巻きつける。そのを、綜絖そうこの縦糸の方へと横から差し込みます。単純でいて気の遠くなるような地道な作業を、ツルヨちゃんはずっと小さな頃から繰り返してきました。


 糸は一本一本が繊細で、それが何処か一箇所でも千切れてしまうと不良品扱いとなり、布は商品として扱えなくなったそうです。そのホツレがないかの確認も、それは丁寧に丁寧に行われました。全神経を研ぎ澄まして作っても、欠損が一箇所さえあれば今までの苦労も水の泡となります。


 

 そんな曽祖母の地元で扱われていたのは、絹でした。


 その絹糸のもととなるのは蚕の糸で、蚕とは蛾の幼虫である白い芋虫。

 そこで蚕はたくさん飼われていて、町には何処もかしこも桑の木が植えられていました。蚕は桑の葉しか食べないからです。


 一枚一枚が厚く、濃い緑色の桑の葉を食べては、蛹になる時に真っ白な糸を吐き出すカイコ様。

 あれは不思議だったねぇ、としみじみと曽祖母は語ります。


 蚕のことを『カイコ様』と様付けで呼んでいる曽祖母でしたが、実は蚕のことは嫌いだったそうです。

 桑の葉の上にたくさんの蚕を手掴みで乗せると、蚕たちはジャワジャワと音を立てながら桑の葉を喰い千切ります。そんな白い大量の芋虫がうぞうぞと動き回る様は、見ていて恐怖しか感じなかったそうです。


 そんな蚕が食べる桑の木には、イチゴのような赤い実がなります。

 桑の実が実るようになると、ツルヨちゃんは地元の子供たちとともに桑の木畑に入り込んでは、学校帰りに食べていました。


 しかし、桑畑には子供は無断で入ってはいけないことになっていたのですが、桑の実を食べると口元が汚れてしまうのでバレてしまい、毎回大人たちに「また桑畑入っただな!」と怒られたと言います。

 桑の実は当時の曽祖母たちにとって、年に一度のおやつのような役割を果たしていたようです。甘くて美味しかったんだよぉと、曽祖母は懐かしむように話してくれました。


 戦時中になると、曽祖母の働いていた工場では絹ではなく、別のものを織るようになります。

 糸は繊細で細い絹糸から太い糸へと変わり、厚い生地のものをツルヨちゃんたちは織りました。


 そうして作っていた生地は、『らっかさん』のもととなりました。

 それは今で言う『パラシュート』のこと。飛行機乗りたちの一体何人が、曽祖母の織った布を使ったのでしょう。



 また、曽祖母からは、曽祖母の両親の話も聞くことができました。

 曽祖母の両親は、「女は学校に行かなくていい」という考えの人だったそうです。


 その両親は『女の役目である』と機織りの仕事を曽祖母に手伝わせては、ツルヨちゃんという少女、そしてツルヨちゃんの姉や妹たちにも働くことを強制させました。当時の子供たちは “親には絶対服従”が普通です。中学校に通いたくとも、ツルヨちゃんは口答えすら許されません。

 文句を言えば「そんなこと言う子はご飯抜き!」と、食事を抜かれることもありました。

 

 なので曽祖母は、中学校に通えなくても『文字の読み』だけは出来るようにしようと毎日毎日、暇さえあれば新聞の前に齧り付いたと言います。分からない漢字があれば周りに聞いて、地道に覚えていきました。


 機織りをして払われる分の給料も全部親に取られてしまい、曽祖母は僅かな小遣いでさえも貰えなかったそうです。お祭りになると売られる子供向けの商品も、当時のツルヨちゃんはただ見つめることしかできませんでした。









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 みなさんが上の文章を読んでどう思ったのか。感じ方次第で様々だと思います。でも本当に日本であったこと、曽祖母から聞いた話をここに纏めさせて頂きました。


 また機会があれば、続きを書かせてもらうこともあるかもしれません。



 以上、ツルヨちゃんのひ孫からでした。

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元機織りの娘のツルヨちゃん 青杖まお @tamakigoro

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