『貴方の背中に憧れていた、はずなのに。』

音無 蓮 Ren Otonashi

貴方の眩しさしか。

 高校生の三年間はたった一人のいけ好かない女に、めちゃくちゃにされて終わった。

 というのが、美竹遥の高校生活の総括だ。

 冬が過ぎれば、春が来る。雪が舞っていた海沿いの銀世界にも、いつしか桜吹雪が吹き荒ぶようになった。

 三月も半ばだった。

 遥はこの春、高校を卒業する。そして、来月の頭には、海辺の、人口一万人弱の小さな町を抜け出して、都会で大学生活を送ることになる。

 明るい栗毛のショートヘアを陽気に揺らす。

 期待半分、寂しさ半分募らせて、彼女は瀟洒な桜が並ぶ、正門をくぐろうとして、


「卒業だね、遥」


 背後から横槍を入れられ、遥の眉間に微かな皺が入る。

 卒業の感傷も半減したところで、重い首を振り向かせた。

 頭上に影が差す。

 整った顔の女が遥を見下ろしていた。繊細なまつげがくるり、と流線型を描く。彫りの深い目鼻立ちは、西洋然としている。緋色の口紅が薄く塗られた唇は魔女の妖艶さを秘めている。

 憎いくらいに美しいその顔立ちに、遥は一瞬見惚れてしまった。が、すぐに表情を険しくする。ほんのりと上気していた頬は隠しきれていなかったけれど。

 遥は眉間に皺を寄せ、忌々しげに目の前の女を睨む。背丈の高いその女がかぶりを振ると、後ろで結んだポニーテールが優雅にしなった。

「……ようやくあんたともお別れね、椿。せいせいするよ」

 三島椿。その名前を聞くと、遥はもれなく頭痛を催す。

 いつだって飄々としていて、そのくせ、誰にも負けない絶対至高の女。揺るぎない一番の人間。

 ――遥が求めていた位置に立っている、嫉妬の対象。

 椿は、威嚇する犬のように唸る遥を軽くあしらう。

「強がっちゃってさ。ホントは寂しいくせに」

「別に寂しくなんかないし? あんたに振り回される日々は、正直……もう懲り懲り」

 大袈裟に首をすくめる遥。努めて呆れた顔を貼り付ける。

 美竹遥は、三嶋椿が気に入らない。

 一番であることを歯牙にもかけない風格が。

 どんな下馬評も全部受け流してへらへら笑う姿勢が。

 彼女のことを散々見下ろしてきては「かわいいね」とからかってくる、ムカつくくらいすらっとした肢体が。

「……遥ってホント、隠し事するの下手だよね。そういうところも好きだけど」

 馬鹿にしてんのか、と声を張ろうとした遥の口はたちまち塞がれる。椿の唇によって。

 刹那の白濁。脳が溶けそうになる。遥は、体内の血液が沸騰しそうな心地だった。

 薄い粘膜だけのふれあい。たった一〇秒。

「……ぷはっ。ちょ、いつも言ってるじゃん、人前でやんなって……!」

「大丈夫だよ。これだったら、誰も気づかないでしょ」

 椿は卒業証書で、周りと二人の空間を切り離していた。

 遥が恐る恐る証書越しに外野を眺めてみても、卒業生と在校生、各々が別れを惜しむ中、二人の秘め事を気に留めているような視線は見当たらなかった。

「ドキドキしちゃうね。もう一回しとく?」

「け、結構だからっ!」

 掴まれた手を振り払って、遥は翻った。卒業の日まで、たった一人の厄介な女にめちゃくちゃにされるのは勘弁だったから。彼女にはまだまだ別れを伝えたい後輩や同輩がたくさん残っていた。

 日向の人間、美竹遥は一〇〇%の笑顔を椿に向けた。

 その表情は作為的でありながらも、どんな相手の警戒心も解いてしまうような、魔性の包容力を秘めている。

 日陰の人間、三嶋椿は薄く笑う。

 桜の木陰から日向を舐めるように。

 あるいは。

 作為的な表情のメッキを剥がすように。

 ――ああ、本当に気に入らない。恋人のくせに、何にもさらけださない透明な目が、私は嫌いだ。

 椿の薄気味悪さから逃げるように、遥は振り返った。それきり、彼女は後ろを見返さなかった。

 振り向けば、椿の思う壺だと分かっていたから。


 ​※ ※ ※

 美竹遥と三嶋椿は、高校一年の夏から、かれこれ二年半、付き合っている。つまり、恋人同士、ということになる。

 ただし、二人は単なる恋愛感情から恋人関係になったわけじゃなかった。そもそも、遥は入学したての頃から、椿を目の上の瘤のように扱っている。

 その理由は単純明快。嫉妬だ。

「勉強も、運動も、その他諸々も。幼い頃から、わたしはなんでも一番が取れた。……なのにさ、あんたは清々しいくらいになんでも、わたしを追い越していった」

 卒業式が終わって、夜。

 遥と椿は地元の砂浜、その波打ち際を歩いている。陸上競技部時代のユニフォームの上に高校指定の、前開きのジャージを羽織っている。

 卒業して離れ離れになるし、最後に一回だけ、デートをしてほしい。そう、提案したのは紛れもなく椿だった。

 ……離れ離れ、といっても椿も遥と同様、上京することになっていたが。なんなら引越し先も一駅分しか違わないくらいの距離しかなかったのだけれど。

「私が一番でムカついた?」

「……そういう質問ができるところに一番ムカついてる」

 悪気がないのが明白だから、余計にいがいがしてしまう。

 天然、というか。空気を読むのがめっぽう苦手というか。

 どうしてこんなのと恋人をやっているのだろう。

 頭を抱えて悩んだことも数知れず。

「ねえ、遥」

「何よ」

「付き合い始めた日のこと、覚えてる?」

 飄々として、唐突にそんな問いを投げられる。ただし、遥は気付いていた。椿の放つ言葉の節々の震えに。振り向いてきらめかせた両の黒目の揺らぎに。

「……そんなの、忘れられるわけないっての」

 遥がぶっきらぼうに答えてやると、椿はぱぁっ、と瞳をひときわ輝かせる。分かりやすい女だ、と遥は一蹴。

 ――そんなふうに素直に感情をぶつければ、もっと可愛げがあるだろうに。わたしと喋るとき以外は仏頂面。ホント、あんたって、不器用。

 二人が付き合い始めたきっかけは単純だった。遥がクラスの男子を振った現場に、椿が居合わせたことが発端だ。

「あんたが急に、わたしを幸せにするって言い出して」

「でも君は頑なに拒否ったよね」

「だって、あんたのこと……苦手だったし」

 三島椿は颯爽と現れて、井の中の美竹遥に大海を見せた――そう例えると聞こえはいいかもしれないけれど、当時の遥にとって、『一番じゃない』ことは衝撃以外の何物でもなかった。

 そして、衝撃はいつしか嫉妬と羨望に形を変えて、今もまだ、遥は嫉妬する背中を追っている。

「でも、今はこうして、晴れて恋人をやっているわけで」

「全部一〇〇m短距離走のせいなんだから」

「君の得意分野で戦ったんだから文句はないよね?」

「わたしの得意分野だけど、同時にあんたも得意だったでしょ?」

「まあね。でも、私のメインは長距離走なんだ」

 てへ、と椿がわざとらしくウインク。

 うわあ、すごいムカつく。遥は大袈裟に唇を噛み締めた。

 一〇〇m短距離走。

 椿が勝ったら、遥には恋人になってもらう。

 遥が勝ったら、椿に何か一つ願い事を叶えてもらう。

 たったそれだけの条件。勝者はレース前から決まっていたようなものだけれど。

 こうした経緯で恋人になり、二年半が過ぎた。けれど、

「わたし、まだあんたに負けてるつもり、ないから」

「君もほんっとうに図太いね。そういうところも好きだよ」

 相変わらず、遥は椿のことが気に入らなかった。

 春の夜風は乙女の柔肌にはまだ刺激が強く、鮫肌のような外気が薄皮を舐めてまわった。


 ​※ ※ ※


『――一緒に『夜遊び』して。それが、私からの最後のお願いだよ』

 卒業式が終わった直後、椿は遥にそんなお願いをした。遥も、断る理由がなかった。

 闇夜を照らす月光を遥は見上げた。

 本日は晴天なり。

 満月のやわくてぬくい明かりが切なげに泣いている。

 遥の肩がほんのちょっとだけこわばった。

「ねえ。さっき言ってた最後って」

「そのまんまの意味。別れようってことだよ」

「そっか」

 遥が淡白に返すと、会話が途絶えた。無言のなか、行く宛もなく、波打ち際に足跡を残すだけの、そんな無為な悠久が続いている。

 これは遥も予期していたことだった。

 三嶋椿は良くも悪くもあっさりとしている。だから、他人からの悪い噂に耳は課さないし、罵倒や嫌がらせに対しても、どうでもよさそうに振る舞えていた。

 だが、彼女はどんな年数を重ねた相手にさえ、簡単にサヨナラできる。それが三嶋椿という女の特性だった。

 夜の砂漠のような、冷たく儚い恋人の横顔が遥の目に映る。恋人の瞳に粘着質な陰りが見える。

 そんな顔、しないでほしい。

 遥は口元を隠そうとして、首を振った。口角を、ふるふると震えるくらい無理やり吊り上げる。

 表情を作るのは、遥の十八番だった。

「最後ならさ、わたしとまた、勝負してよ」

「どうしたんだよ、藪から棒にさ」

「負けっぱなしだからさ。最後に一回くらい、あんたに背中を見せておきたいんだ」

 椿は、大袈裟に肩をすくめた。

「嫌だよ。だって、今の私は、絶対に君に負けちゃうから」

 ――三嶋椿は、三年の春に右足を故障した。

 最後の大会に向けて調整を重ねていたさなかでの惨事。

 部内の同輩や後輩に同情されながら、椿はグラウンドを去った。

 その日から彼女は部活動を休むようになった。

 しばらくは、遥の前にも顔を見せなくなったくらいだ。

 ……久々に誘ったデートで、飄々とした面持ちだった彼女をみた時、落胆よりも安堵のほうが大きかったのは、もちろん、椿には内緒である。


 そんな元・怪我人の彼女を、走らせようとしている。

 勝ち負けははっきりしている、というのに。


「遥も性格が悪くなったね? 私のがうつったのかな」

「今更あんたの前で猫を被っても、馬鹿馬鹿しいだけだし」

「そういうとこ、遥っぽくて好き」

「軽々しく好きって言えるところ、ほんと、——」

 嫌い、と突き放そうとした喉はからからに枯れていた。

 遥は咳き込んで、

「わたしが勝ったら、別れてあげる。でも、椿が勝ったら、そのときは私のお願い、なんでも聞いてくれる?」

 椿は予想外の条件に一瞬、目を大きく見開く。しかし、その意味を理解して、諦念混じりの微小を浮かべた。

「……勝手にしなよ。そんなの、答えはもう、決まったようなものじゃないか」

「ええ、決まったようなものね」

 ざまあみろ、三嶋椿。遥は内心でほくそ笑んでやった。

 ようやく、ただ憎いだけの恋人との関係に一区切りが打てそうだった。


 ​※ ※ ※


「あの流木がゴールラインね。距離は目算でしかないけど、だいたい一〇〇mってことで」

 遥が指す方向には、砂浜に打ち上げられた流木があった。

 投げ捨てられるジャージ。はらりと、濃密な夜と潮の香り、そして雪崩れる桜吹雪を孕んで、深緑の布一枚は冷たい砂上を覆った。

 クラウチング・スタート。二人は膝を落とす。親指と人差し指、広げて、砂の上に食い込ませる。爪先で踏み込めば踏み込むほど、ランニングシューズが、ざりと音を立てて砂浜に潜る。

 両足の位置を確かめながら、遥は吐き捨てる。

「……こんなのは自己満足でしかない。分かってる」

「遥はやっぱり、私に勝ちたかった?」

「今だって、勝ちたいよ」

 ――On your mark, Set.

 どん、と。囁きのような号砲が重なる。

 風が生まれる。

 乾いた砂浜は蟻地獄の巣だった。

 足の裏で砂を握るように、二人は一歩一歩、踏みしめる。

 背中に放たれる砂塵が舞い散る桜吹雪を撃ち落とす。


 ――その走りは、遥の中で過去一番のものだった。

 きっと、前に誰もいなかったからだ。

 

 椿に負けたその日から何度も、自分が井の中の蛙だったことを思い知らされた。だからこそ、人一倍練習するようになった。けれど、引退試合となった大会でも地区大会三位止まりだった。

 対して、椿は地方大会すらも楽々と追い上がって、一年、二年と全国大会で戦っている。

 実力差は隔絶としていた。

 しかし、それもあくまで過去の栄光。

「はっ、はっ——くっ」

 遥の斜め後ろ、苦しそうな喘ぎ声。美竹遥の中にある三嶋椿の偶像がヒビ割れていく。

 遥は誰もいない未開のその先を駆け抜ける。

 三嶋椿の背中が見えない、一等賞を求めて。


 ​※ ※ ※


「……どうして、止まるんだい?」

 遥は。

 流木の手前で立ち止まって、立ち尽くした。

 椿にはその行為の真意が読み取れなかった。ゆえに、遥の手を引いて、半ば無理やり前へ引っ張る。

「勝っても負けても、結末は決まってるでしょ。だったら、遥が勝てばいいじゃん。弱くなった私だけど、これでも全国常連だったんだよ? 一番目指して努力してた君に有終の美を飾るに相応しい相手じゃ——」

「一番目指して努力していたのは、あんたもでしょうに」

 椿は、遥の手を引いたままだ。

 不格好なゴールラインは、まだ踏み越えられていない。

 遥を握るその手は、震えている。

 強く、強く恋人の手を握っている。

「ちょ、痛いんだけど」

「いいから、早く私に勝って。一歩先、ゴールだよ? 一等賞、君が最も欲しかったものだよね。そして、君が勝てば、私の望みも叶うんだ。だから——」

「……だから、なおさら勝つわけにはいかないの」

 え。

 椿の口から、そんな呆けた声が漏れた。

 遥は首を振って、頬に上り詰める昂りを振り払おうとして、できなかった。

 だから、握られた手の、指の隙間に指を通して、握り返す。手汗が滑ってきゅっ、と淫靡な響きをもたらした。

「どういうことだよ、はる――」

「いい加減気づいてよ、——馬鹿椿っ!」

 遥は、固く握られた手のせいで逃げられなくなった椿を、砂浜の上に突き飛ばす。繋がれた手を離さなかった遥が、椿の上に覆い被さった。

 満月の影に隠れた遥の目が光る。冬場の、獲物に飢えた狼のような気迫があった。

 椿は圧倒されたまま、身じろぎ一つ取れなかった。ゆえに、遥の唇が首筋を侵すことを簡単に許した。

 そこからは一方的で、暴力的な愛撫が続いた。

 時折、犬歯が皮膚に食い込む。椿はちくりとした痛みを味わうたびに、脈拍が轟いていくのを実感していた。

 彼女は今、生殺与奪の権を掌握されていた。

「ん、ちゅ……ぷは、はぁ……はぁ……、ま、まだ……」

「は……、離してよ、遥」

「いやだ、いやだいやだ、いやだぁ……」

 遥の腕を退かそうとしても、切なそうに駄々をこねる遥の腕力には抗えなかった。

 犯されている。骨の髄まで食い尽くされようとしている。

 情事なら、何度も何度も重ねたはずだった。その都度、椿がリードして、遥をとろとろに、ぐちゃぐちゃにしていたはずだった。

 が、今日に限っては立場が逆転している。その事実を目の前にして、椿の背筋にはゾクゾクとした快感が迸っていた。襲われているのが、不覚ながら、気持ちよかった。

 遥は丹念に、そして執拗に、砂を浴びた椿の肌をその舌で洗っていく。彼女の首元を、耳を、二の腕を、両手を、ふくらはぎを、そして、陸上のユニフォームをめくって、腹部や胸の先端、太腿まで。

 舐め尽くして、吸い尽くして、時折、柔肌を噛んでみる。

 小一時間経った頃には、遥も椿も、興奮して息が荒くなっていた。まだまだ冷たい春の夜に、女の湿った吐息が混ざりあう。

 砂地に埋もれた椿の儚げな肢体はあられもなくはだけている。自慢のポニーテールも砂のせいでぐしゃぐしゃだ。

「はぁ、は……い、いつもは私が攻め、てるの、に……」

「くっ、はぁ……いっつも一番なあんたが、いいザマね」

 椿の慎ましい胸にいくつかのキスマークをつけ終えたあとで、ようやく遥は唇を離した。ねっとりとした唾液が、月明かりを蓄えて糸を引いている。

 青春の一ページに差し込むには官能的過ぎる一幕。

「いったい、どうして、こんな」

「まだ分からないの? それとも……まだ、足りない?」

 遥の口元からじゅる、と水音が漏れた。本能的な恐怖で椿はふるふる、と首を振った。しかし、その目は期待を含んで、潤んでいた。

 遥は、獲物を見つけた肉食動物の顔だった。

 でも、椿には分からなかった。

 どうして、遥が今更、自分のことを襲うのか。

 どうして、憎いはずの自分を求めたのか。

 どうして——、遥が勝負に負けようとするのか。

「だって、君は私のこと、ずっと嫌いなはずで」

「嫌いだったら、……二年半もずっと一緒にいないよ、わたしは」

 ゼロ距離で見つめ合う。瞳と瞳が言葉を介在せずに、意思を直接ぶつけ合う。

 猜疑と、本心とを雪合戦のように投げ合って。

 その雪玉はいつしか、溶けきって。

 椿の頬に生温いしずくが降ってくる。何度も、何度も。

「……好きじゃなきゃ、こんなこと、できないって。確かに、あんたはいけ好かないヤツだったし、難かったよ。けど、そうじゃないんだ。どんなに憎くても、嫌いだって言えてもね、……そういうところも含めて、好き、なの」

「そ、そんな、わけ——」

「そんなわけ、あるんだよ」

 ――だって、わたし。高校の三年間、あんたにめちゃくちゃにされたんだもの。

 ――あんたの背中しか見えないようにされたんだもの。

 ぼろぼろと発露した感情をこぼしながら。

 ふわっと。みっともないくらいに掠れた鼻声で、遥は笑ってみせる。

 誰にも好かれる、作為的な笑顔なんかじゃなくて。

 不器用ながら、一二〇%の本心を打ち込んだ、芯の通った微笑だ。

「——例えば、一番になるための努力を惜しまないところが好き。人一倍、どころか二倍、三倍の練習をこなしているのを、恋人になって初めて知った。あんたが頑張っていたから、わたしも、もっと頑張ろうって思えた。一番になるために誰よりも必死になってたあんたが好き」

 好き、は口にすればするほど溢れてくる。椿はきゅ、と胸を抑える。鼓動、高鳴る。

「——例えば、時折わたしだけに見せる無邪気な笑顔が好き。椿ってクールな見た目して、意外とキュートなもの、好きじゃん? わたしが誕生日プレゼントであげたペンギンのぬいぐるみ、貰ってすぐにぎゅーって抱きしめてたじゃん? あんなの見せられたら、ときめいちゃうよ」

 やめて。

 やめてよ。なんで、こんなときに。

 嬉しい気持ちを遮るように、椿はぶんぶんと首を振る。

「でも、何より——例えば、意外とおせっかいなところが一番好き、なのかな。椿、あんたってさ、——私が悪い男に引っかからないように、付き合ってくれてたんでしょ?」

 彼女は、「うっ……」と途端に顔を赤くして、遥の目線から逃れる。

 分かりやすいんだから。遥はふふっと噴き出す。

 二人が出会うきっかけとなった告白。あのとき、遥に告白した男子はその後、学校内で三股での交際をしていたことが発覚し、学校から非難の的にされたのだった。

「それは……あの男の子が入学当初から、なんか近寄りたくないな、って雰囲気出してたから、だし」

「でも、人助けのために真意を隠して、恋人になろうだなんて普通できないよ。それも、嫌われている相手に対して、だよ? 大胆すぎるでしょ。そのおかげで、わたしは傷つかずに済んだんだけどね」

 椿の英断で、いつの間にか自分が救われていた——その事実を目の当たりにして、遥の心は大きく取り乱された。

 触れ合うなかで剥がれていった嫌悪感が、一気に『好き』へと反転した。

 恋人と目が合うたびに胸の高鳴りやざわめきが酷くなった。触れるだけのキスじゃ物足りなくなって、自分から舌を出してせがむようになった。情事の時間も回数を重ねるうちに長くなっていった。

 一つ一つの、二人きりの時間が、愛おしくて。

 去っていく瞬間を見送ることしかできないのがひたすらに切なかった。

「ねえ、椿」

 身体を起こして、金色の砂粒を振り払う。

 きらきらとした大海原は地平線まで続いている。

 終わりない、果てまで広がっている。

 ——この恋を、終わらせたくない。

 別れようと言われた瞬間、椿の瞳が揺らいでいたから、遥はそのときには既に決心していた。

「好きだよ、椿。だから、別れようなんて言わないで。わたしに勝って、わたしをあんたの一番にして」

 美竹遥は、三嶋椿の背中に憧れている。今もまだ、置い続けている。いつか、彼女の一等賞になることを所望している。けれど、一位とか二位よりも、やっぱり彼女の隣が一番だった。

 押し倒されていた、恋人は。

 いつも余裕ぶっている、一番の女の子は。

 一番になれなかった恋人が差し伸べた細い腕を、恐る恐る、握りしめ、立ち上がる。そのまま、倒れるように遥の胸に抱きついた。

 今度は絶対に、離さないように。逃さないように。

 彼女を、自分の一番にするために。

 雪は溶けて、冷たい白波が椿の季節の終わりを告げる。

 霙のような桜吹雪は、舞台上の少女たちを祝福している。


 終

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