10日間

山茶花

本文

 わたしの断食は10日目を向かえた。われわれはたった10日の断食で音をあげたりしない。ことはまだはじまったばかり、これから数えきれないほど日が昇っては沈み、意識は朦朧として、目覚めているのか夢見ているのかさえ、区別できないときがやってくる。そうなってからが本番というもので、わたしもこれまで何度かそういう危うい時間をすごしてきた。はじめのときは死ぬ思いを味わったものだ。わたしは腹を空かせていた、というよりもわたしの全存在が空腹だった。世界はおおいなる空腹そのものであり、わたしはその一部として存在しているにすぎなかった。地を覆う無数の仲間たちのただなかで、わたしはすべてから見放されてしまっていた。わたしを苦しめるために太陽は輝き、輝かず、わたしを苦しめるために風が吹き、吹かなかった。わたしを苦しめるためにわれわれはこんなにもたくさんいた。わたしを苦しめるために! ひょっとして、わたしはとっくに死んでいるのではないだろうか? ここは地獄で、わたしは死後の責苦を受けているのではないだろうか? もちろん、そうではなかった。わたしは死んでおらず、群れから見放されてさえいなかった。ついに卵は割れて、愛すべきヒナが生まれたのだ。

 次のときやその次のときには、もはや乗りこえられない壁とは思わなかった。わたしは自分じしんが思っている以上に遠くまで行くことができるのだ。だからといって、われわれの仕事が楽になったというわけではない。卵はいつ孵るのかわからず、飢えは底なしで、身体は次第に枯れていく。しばしば雪が降り、風が吹いて、吹雪となる。空は暗くなり明るくなり、永遠のような時間が頭上を流れていく。われわれのだれもがそうした難関を超えることができるわけではなく、毎年すくなくないものたちがほんとうに命を落とす。とはいえ、彼らは引き受けた仕事のなかで毅然と死んでいく。10日間の断食にうろたえて、卵を放り出してしまうようなことはけっしてない。

 もし断食の10日目にして空腹に耐えかね、われわれの群れを外れるようなものがあらわれたとしよう。わたしは彼を同じペンギン族の一員として数えていいものか、疑うだろう。疑う、というのはわたしなりに手加減した言い方だ。じっさいには、われわれのほとんどが彼をペンギン族よりも格下の軽蔑すべき存在として扱い、そのことを疑ったりはしないだろう。ふたたび彼と群れと会う日がきたたとして、われわれは彼の鳴き声を聞くや否や彼を群れから追いだしてしまうだろう。厳しい吹雪がきてわれわれが身を寄せあって耐えているとき、彼はそのなかに混じることができない。したがって、彼は吹雪に耐えることもできないだろう。もしわれわれペンギン族がそこまで残酷な種族でなかったとしても、彼の声ができそこないの声としてわれわれに覚えられてしまうことはさけがたい。そうなれば、もう2度とつがいとなってこの内地で卵をあたためることはできない。彼はもうできそこないの歌しかうたうことはできないからだ。

 いまひそかにわたしがなりたいと願っているものこそ、そんなはぐれものだった。未来のヒナを見捨てて餌場へ向かいたい誘惑は刻々と強くなっていき、ほとんど暴力的にわたしをつかんではなさなかった。誘惑はこの仕事のせいで棒立ちになっているわたしをぶちのめした。わたしは空腹にたえかねていたのだ。たった10日の断食の空腹に! たった、と言う。いったいなににくらべて“たった”なのか。もちろんこれから続くながい月日にくらべてである。いま耐えられないものがこれから先耐えられるはずがない。いますぐにでも群れから離れていきたかった。どうせ耐えられないのなら、いま我慢する意味なんてないではないか、いま離れてしまってなぜいけないのだろう?

 もしわたしが若いペンギンに同じことを言われたなら、それでもしばらく待つよう答えたにちがいない。きみは耐えられないと言う、それはうっかり漏らした弱音などではなく、心底そう思ったているのかもしれない、しかし、そうではないのだ、きみは耐えられる、耐えられるようにできているのだ、われわれは、それはきみが自分じしんをなんと思い、どう正直に感じたどころで、そんなこととは無関係に定まっている、われわれの事実なのだ、待っていればしだいにその事実がきみにも呑みこめてくるだろう、だから待ちたまえ、いまは! わたしはそう言ってクチバシを高々とかかげて見せるだろう。

 記憶をいくら遡ってみても、断食10日目の空腹がこれほど耐えがたかったことはない気がした。いまわたしを苛んでいる飢えは、はじめて卵をかかえて断食したときの飢えを、ずっと凌いでいなくはないか? わたしははじめのときの飢えをできるかぎりありありと思いだし、いまの飢えとあの飢えとをくらべてみようとした。それから、いまの飢えをできるかぎり過小評価しようとした。が、むなしい試みだったと言わざるをえない。

 まわりのペンギンたちを見まわしてみた。青い空の下、氷った大地を覆いつくすわれわれ群れのなかには、これまで何度も内地で顔をあわせてきたものもいたし、はじめて卵を温めようという若者たちもいた。みんな丸々と肥えて誇らしげにクチバシをもたげている。やがてくる試練の日々をあえてあなどってみせようというのか。なかには余裕を見せつけんばかりに、調子っぱずれな歌をうたって、仲間たちを笑わせようとするものもいた。われわれのだれもが各々の卵をかかえて孵化を待っていた。黒い群れは希望と友情にあたたかく息づいていて、ことがまだはじまったばかりなのだとわたしに知らせていた。まだはじまったばかり!

 いうまでもないことだが、どの卵も孵化をむかえられるわけではない。いくら親鳥が待ちつづけても孵らない卵もなかにはあって、待ちつづけて餓死するよりも、卵を見捨て、エサをもとめて海へ向うることをえらぶものたちもいる。われわれは彼らを責めない。わたしじしんも何度となく目にしてきたが、彼らを責めようなどと思ったことは1度もない。不幸に思い、あわれみ、やさしくしてやらなければならないのであって、責めるものがいたら、そのものこそ不幸に値する。アザラシに食われて死すべきものたちである。

 いずれわれわれのなかからもそんな不幸なペンギンたちがあらわれるにちがいない。さしあたりまだ先の話で、10日目にしてはやくもこの卵は孵らぬものだと決めつけて、卵を放りだしてしまうようなことは考えられない。わたしも見たことがない。もしわたしがそんなふうに内地を去っていくとしたら群れは理由を問いただすだろう。どうしてそうしないではいられるだろう? わたしはなんとも答えられない。一巻のおしまいである。本心を見抜かれるか見抜かれないかにかかわらず、わたしの後姿には憫笑と心ない冗談がついてまわることだろう。

 いまわたしはここから去ることができる。断食に耐えず、卵をあたためず、群れからはなれて、海へ餌食をさがしにいくことができる。もうすでにそうしているものたちがおおくいて、その仲間のなかに、おくればせながら混じっていくことができる。だが、それができないのだ。わたしは卵と仲間たちをここに残して去っていくこともできなければ、いまさら彼らのなかに混じっていくこともできない。いまはじめて、わたしはわれわれの群れがばかばかしくなってきた。このばかばかしさをだれに説いたものか? わたしはだれにも説くことができない。ということは、けっきょくのところ、ばかばかしいのはわたしじしんではないか?

 空腹はいまにもわたしの命をなぎ倒そうとしていた。あと1日だって、この飢えに耐えられるとは思えない。わたしは不幸なペンギンたちの一員でいたかった。その不幸が一刻でもはやく仲間たちに知れわたり、この仕事から放免されることを願わずにはいられなかった。じっさいのところ、わたしは卵をさずからなかったどんな仲間たちよりも、不幸なのではないだろうか。いまのわたしよりもましなペンギンのすがたとして、彼らのようでいることを願っているのだから。

 願っているばかりではない。もしわたしがこの空腹の日々をやりすごした後に待っているのは、たんなるありがちな不幸であるかもしれない。じつは、ずっとそんな気がしているのだ。誤解しないでもらいたいが、空腹によって気が弱っているから、未来にたいして悪い予感ばかり抱くようになったというのではない。むしろ予感が先にあって、そのせいで空腹がより耐えがたいものになっているといったほうが正しいのだ。このたびはわたしの卵に赤い斑点がついていたからである。

 いったいなぜ卵に赤い斑点がついているのか、この赤い斑点がなにを意味しているのか、わたしにはわかりようもないことだった。とにかく、われわれが抱えている卵のおおくは純白で、赤い斑点がついている卵なんて見たことも聞いたこともない。われわれがふだん育てている卵とちがっている以上、同じような育て方をすれば同じように孵化するという根拠はない。そんなふうに思いこむのは救いがたい楽観ではないか? 言うまでもなく、赤は血の色であり死の色であり不吉を思わせる。この卵は失敗作だ、温め続けても、そもそもなかに命は宿っていないのだ、わたしがいまこうして苦しみ、これからも苦しみつづけようというのは、まったく愚かなことだった!

 いまにして思えば、わたしはこれを理由にして内地から去ってしまうことができた。しかし、そうしなかった。冷静に考えてみれば、赤い卵だから死んだ卵だと決めるつけるような根拠も、また、なかったからである。たまたま卵の殻がそういうふうに色づいているだけで、後のことはふつうの卵となにも変わらないかもしれないではないか? そう考えてはいけない理由があるとでもいうのだろうか? わたしはこれまですくなくない卵を見てきた。たしかに赤い卵なんて見たことはないのだが、そもそも赤い卵があったりなかったりすることを問題にしたことはなかった。われわれは無数にいて、わたしが見てきた卵はごく一握りにすぎない。われわれが産んで育てる卵たちすべてがふつうの卵であるなどということは、むしろ考えにくい。毎年かならずふつうでない卵が産み落とされているだろう。そして、そのわれわれでさえ、無数のペンギン族のなかのごく一部にすぎないのだ。無数のペンギンたちが無数のおかしな卵たちを産んでいるはずだ。それらは、ふつうの白い卵とくらべてどれくらい孵化したりしなかったりするのか? 赤い斑点がついているというだけでここを去るのは、まるでそれらはみんな孵化しないと言い切ってしまうのと同じではないか?

 われわれの言い伝えなかに、幾羽かの英雄的なペンギンのすがたを見つけられる。海底にまる1日潜って死ななかったもの、羽の一撃でシャチを打ち殺したもの、歌で天候をあやつったもの……、しばしばそうしたペンギンたちは奇妙な卵から生まれるものなのだ。ほとんどは子どもだましだが、どんなおとぎ話のなかにも真実はあるのであって、彼らが生まれた卵についてのことこそ、まさにそのような真理と呼ぶべきものではないか!

 よするに、わたしは賭けたのである。このたび内地ですごす冬は実りのない不毛な冬かもしれない。さんざん苦しい思いをして、そのあげくなににもならない冬かもしれない。その可能性はおおいにある。けれども、一生に一度のとくべつな実りにあずかるかもしれない冬でもあって、危険をおかす価値はあると踏んだのだ。……あきらかに、わたしは冷静に考えてなどいなかった。孵らない卵をあたためつづける悪夢とはべつの夢を見ていただけだ。内地に残ることを決めたとき、なんとおおくのことに目をつむっていたことだろう。なんとおおくの見えていることを見ないようにしていたことか、おろかにも見えてすらいなかったことか! いまこそわたしは目覚めた。おとぎ話のなかにあるかもしれない真実などどうでもいい。この空腹こそが真実だ!

 とつぜん、わたしの腹の虫が鳴った。その音は仲間たちに聞こえてしまったろうか? わたしはうろたえてまわりを見まわした。

 「卵をあたためるのははじめてなんですが」近くで若いペンギンが言った。「断食って言うほど厳しくないですね。これならあと50日だって100日だって続けられそうだ」

 「ふふん。はじめはだれでもそういうのさ」大きなオスが言った。「はじめは、な。あともうしばらくしてみな、そういうやつにかぎって、めそめそ泣き出すのさ、オナカスイタヨオってな」

 「はは、生意気を言ってみました。おじさんも泣いたんですか?」

 「ばか言え。泣くもんか。おまえと一緒にするんじゃないよ」

 「さすがおじさんだ、じゃあぼくもぜったい泣きませんよ」

 「ふん、泣くどころじゃなかった意味さ。泣くような余裕もなかったよ。死ぬかと思った……死ななかったけどな」

 「そうなんですか、なんだか考えられないな」

 「そりゃあ、いまはそうだ。そんなふうになるのはまだまだ先の話だもの。でも、安心しろ、おれたちゃ簡単には死なねえから」

 われわれのすべてが内地にとどまって卵をあたためなければならないわけではない。つがいのメスたちは海へいっている。やがて孵化したとき、ヒナに食べさせるエサを集めているのだ。それから、われわれのうちで、今年つがいになることができなかったものたちも、海辺にとどまったままだ。まるでなにごともないように日々をすごしているし、卵がないのだから、じっさいになにごともないのである。不幸せなペンギンたちだ。けれども、こうした気ままな日々には魅力があり、その魅力にとりつかれて、1度も内地へ来ることがなく、つがいになることもなく、したがって卵とも断食とも縁がないというペンギンたちもいるのだ。もしわれわれのなかでそんなものたちが増えてしまったなら、早晩われわれはみんなこの世からすがたを消してしまうことだろう。避けるべき堕落であり、じっさい彼らのおおくは不名誉な扱いをまぬがれない。

 とはいえ、彼らは軽蔑に甘んじるわけではなく、ある一点で誇りを守ろうとする。それは歌である。ほとんど内地のコロニーにすがたをあらわさない彼らについて、わたしも伝え聞いたことしかしらないのだが、彼らはこの大地と大海のどこかにあつまって、日夜歌の研究をしているというのだ。もちろん、われわれも歌をうたう。われわれにとっても歌は喜びであり、遊びであり、自分じしんだ。だが、われわれは生活の要求から歌をうたうのであって、歌の要求に生活をささげてしまうようなことはしない。ところで、彼らがしていることは、まさにそのようなことらしいのである。長い月日と幾世代にもおよぶ研究の結果、彼らの歌はわれわれの歌とは比べようもないほど違うものになってしまった。彼らの歌は繊細かつ巧妙な調べで耳を喜ばすどころではなく、鯨をもあやつる。アシカやシャチをとおざけ、魚群をよびよせる。そうした実用上のことだけではなく、彼らはわれわれの歌が持っているほんとうの意味を知っているという。われわれのものでありながら、われわれにはただしく理解されていない歌のほんとうの意味がある。われわれが目ざしていながら、われわれにはただしく見えていないほんとうの目的がある。歌の力によって、そのもとに彼らはわれわれを導こうとする。いってみれば、歌こそが彼らの子どもであり、われわれの卵などよりもずっと高尚なものだというわけである。彼らに言わせれば、われわれが卵を生むことは彼らの歌を完成させるためであり、その逆ではないというわけだ。

 ところで、われわれのなかのだれも、超ペンギンとでもいうべきそんな達人たちにお目にかかったことがない。出会うのはせいぜい達人の弟子を名乗るものたちだ。じっさいには達人の弟子のそのまた弟子であり、さらにその弟子の弟子たちだ。その彼らから手習いを受けたことがある自称するものや、理解者を自称するものたちであることも、しばしばある。このように彼らが住む世界とわれわれとは隔てられている。ごくまれにそうした連中に日ごろの研鑚の成果を見せてもらうことがあっても、その歌はわれわれのものとほとんど変わらず、魚も天候もあやつることができないのは言うまでもない。耳を澄ませれば、たしかに彼らの歌は気が利いていて、われわれのなかにもそのことを認めるものがいないでもない。たんに耳ざわりだというものやなにも変わらないというものたちもいて、そして、以上でもそれ以下でもないのだ。弟子たちの歌は偉大な師をほめて終わる。そのほめ言葉はわれわれが仲間同士ねぎらう言葉と似たようなものである。

 そのような次第で、彼らの試みは試みのまま終わっている。とどのつまり達人の伝説はおとぎ話にすぎない。彼らは、水が低きにながれるように務めから逃げた堕落者にすぎない。達人たちは、堕落者が精いっぱい強がって考えだした守護霊さまにすぎないのだ。

 それでも、わたしは彼らの理解者であるのかもしれない。歌のための歌をうたいたい気持ちは、わたしにも強くあるからだ。ときどきそのことを考える。わたしが彼らの仲間でないのはまったくたまたまのことではないだろうか。彼らのような生き方があることを知ったときには、わたしはもう内地で卵を温めるほかなにもできなくなっていた。われわれにとって彼らは遠い存在であり、彼らから見たわれわれも同じだろう。とはいえ、かつては同じただの若鳥だったのだ。

 まるで天のお告げみたいに、歌の命令が聞こえることがある。歌え! 仲間たちのためではなく、ただわたしのために歌え! どんなペンギンの声よりもずっと大きな声で、歌そのものがそう語りかけてくるのだ。そのとき、わたしがもし1羽ぼっちでいるなら、わたしは歌の求めに応えて好き放題うたうことができる。高く、低く、調子あかるく、あるいはくらく。けれども、実際にはうたうことができない。わたしはまったく技術が足らず、歌が求めるほど高い声も低い声も自由闊達な調子も、わたしののどからは出てこない。ほとんど完璧な敗北だ。それでいて、これほど甘んじて受け入られる敗北はないのだ。もしわたしが彼らのように生活を歌にささげることができたら、もうすこしましに歌うことができるだろうか。その思いに胸を焼かれるほどわたしの歌への愛は強いものなのだ。

 歌の命令が聞こえたとき、群れのなかにいるなら、ことはそう簡単にはいかない。われわれの歌はふだんそれほど巧妙でもなければ繊細でもない。決まった調子と決まった外し方があるだけだ。命令に応えてわたしがときならず奇妙な歌をうたいはじめたなら、仲間たちは驚くだろうし、なぜそんなことをしはじめたのか問わずにはいられないだろう。だれにも命令など聞こえていないのだから、わたしとしては答えるすべがない。ついに生活を放棄して歌にすべてをささげるときがきた、わたしはこれから世界のどこかにいるほんとうの仲間たちのもとへ行く、きみたちとはおさらばだ! そんなふうには答えられない。じっさいにそう思ってすらいないのだから、なおさらだ。

 それにしても命令がやってくるときは仲間たちに囲まれているときであることがおおいのだ。仲間たちがうたい、わたしがこたえてうたおうとする、そんなときにかぎって、歌の命令が脳天に直下する。雷の一撃に見舞われたようなもので、わたしは全身毛羽立ち、しびれてしまう。それなのに、わたしはなにごともなかったかのようにやりすごさなければならない。全身全霊で、歌の命令を無視するのだ。むしろ逆らわなければならない。歌が高くうたえと命じるならば低くうたい、歌が遅くうたえと命じるのなら速くうたわなければならない。その1つ1つが汚らわしく、腐りきっていて、わたしのクチバシとのどはたちまち汚物まみれだ。いや、わたしだけであるはずがない。ほかのペンギンたちだって汚物まみれのはずではないか。しかし、われわれのだれもなにも知らぬげに明朗で快活だ。ほんとうはおまえたちだって雷に撃たれているのではないか? みんなたんに黙っているだけなのだろうか?

 じつはこのたび内地に集まったときも歌の命令がやってきた。そしてこのたびばかりはわたしは無視できなかった。内地のオスたちが愛すべき伴侶をもとめてうたっているときに、わたしはただ1羽歌のもとめに従ってうたっていた。その歌は、われわれがいまこのときにうたうべき歌とはおよそいえず、わたしじしんにとってもふさわしからぬ歌だった。じっさいメスたちは苦々しげな顔をしてわたしから離れていったし、なぜそんな歌をうたうのか問われもした。わたしはこたえず、うたうことをやめなかった。やめられなかった。愛をたしかめあうように寄り添うつがいたちのまえでも、わたしはうたいつづけた。恥ずかしげに顔をふせるもの、腹立たしげににらみつけてくるもの、泣きそうになってしまうものや、わたしにやじをとばしたり、わたしを殴りつけてくるものがいた。そのすべてがわたしをかなしませるよりも得意な気持ちにさせた。わたしが群れから逃れずとも、群れのほうがわたしから逃げていくかのようだ。そんななか、ゆっくりとわたしに近づいてくるものがいた。

 彼女は長い尾をもっていた。その長さは優に背丈の半分はあるほどで、彼女はそれをひきずって歩きながら、わたしの目の前を行きつ戻りつしていた。ときどきその尾が持ちあがり、ピンとのびたり、左右にゆらしたりしていた。いかにも意味ありげだが、なんの意味があるのかはわからない。ほとんど全身の羽が白くて、黒いところは翼の先端くらいだ。クチバシがひどく曲っていて、半月を描くように下に垂れさがっている。瞳は深紅だ。はじめ、われわれのなかにまるでべつの生き物が混じりこんできたかのようだった。わたしもなにか起りはしないかと身構えていた。彼女は上をむき、クチバシをひらいて、のどを鳴らした。それはわれわれと同じ歌だった。すると、間違いない、彼女がわれわれの仲間なのだ。しかも、どうしたことだろう、彼女の歌はわたしにこたえているではないか! 彼女の歌はわたしの歌によりそい、つたなくみっともないわたしの歌をおぎなってくれていた。いまはじめてわたしは自分がうたっている歌の真の意味が理解できた気がした。わたしたちはしばらくそうしてうたっていた。わたしと彼女とはつがいとなり、この赤い卵がのこされたのだ。 

 いまさら思うのだが、彼女はほんとうにわれわれペンギン族の仲間だったのだろうか。しだいに暗くなっていく空を見あげながら、わたしは思っていた。さきほどまでまばらだった雲が次第に厚くなり、太陽を隠した。切れ端のような青空しかのこっていない。彼女はペンギン族の歌のようななにかをうたう別の生き物だったのではないか。彼女がわたしの求めにこたえてくれたことも、われわれがつがいとなったのも、わたしひとりの思いこみにすぎなかったのではないか。わたしはいま卵を温めている。しかし、そもそも彼女がペンギンでなかったとすれば、これはそもそも卵ですらないかもしれず、そうなるとわたしは卵を温めてすらいないのかもしれない。それでもわたしはここを離れられない。とどのつまりわたしが勇気をもってうたった歌がこの卵をつくりだしたのであれば、どうしてここを離れられるだろう。

 勇気をもってわたしはかつて断食をのりこえた記憶を思い出した。いまいちど、かつて経験した辛い過去、とりわけはじめてこの冒険をのりこえたときのことを思い出そうとつとめた。死を覚悟した、あのときを! けれども最初の記憶はいまとなってはそれ自体なんども思い出してきたものだ。内地で空腹に苛まれるたびに、わたしは最初の記憶を思い出してきた。あれから後、何度も内地にきたことは、それ自体もはや思い出になってしまっている。わたしが思い出すことができる最初の経験は、その後何度も繰り返された成功の記憶のなかの一部となってしまった過去だ。その空腹はいまわたしを苦しめている空腹となんとちがうことだろう。

 雪が降りはじめた。いずれこの雪がやむころにはわたしのこの空腹もいずれ大げさな記憶になっているはずだ。もはや避けることがでいないなら、そうなってくれることを願うことしかできない。わたしは背筋を伸ばして灰色の空をにらんだ。われわれは10日の断食で音をあげたりはしない。ことはまだはじまったばかりなのだ。群れのどこからか調子はずれな歌が聞こえてきて、歌っているペンギンがくすくすひとり笑いしていた。 

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