第11話 嘘つきの櫛

 ゆっくりとすきき続けていた老いた牛が足を止めた。イリソスは疲れた獣に寄り、首をでる。農具を外してやると、牛は耕地から逸れて壊れた小舟へと歩み、そこに溜まる水を飲み始めた。

 イリソスは夢中で水を求める様子を見届け、再び耕された土に視線を戻す。大地には巨大なくしにかかれたような筋が並んでいた。

 彼は車に戻ると、土器を運び出した。それらに満たされた土からは若々しく育った緑が伸びている。イリソスはそっとそれを取り出しては大地へ移して行った。

 やがてからペリケを両手にイリソスが舟へと近付くと、牛はうずくまって弱々しく鳴く。


「ごめんな、お前もとしなのに」


 腕を伸ばして再び撫でると牛はやがて眼を閉じた。皮と関節の目立つせた体躯たいく。今、命がそこから離れても不思議ではない。それを働かせるのも終わりにしなければならない、とイリソスは思った。


 イリソスは腰の袋を探ると、白檀の梳櫛すきぐしを取り出す。ふわりとなまめかしい香気こうきが漂い、彼の記憶を呼び覚ました。

 ラウレイオンを落札する時、既にクロエは贅沢ぜいたくな身の回りの品をほとんど処分していたが、手元に残した一つがこの櫛だ。愛用品であろうことは、象牙に彫刻をほどこした美しい両歯櫛も残したにもかかわらず、こればかりを使っていたことからおのずと知れた。

 櫛には模様のようなものが刻まれている。これは彼女自身がつけた彫り跡だ。まれに小刀で削った小片を熾火おきびに落とし、その度、幽艶ゆうえんな香りが時を染めた。


『歯が欠けて嬉しい櫛なんて余りないでしょう?』


 かんばしさに身をくつろげ、クロエはそう微笑んだ。


 彼女の象牙の櫛は牛や小舟を生んだ。同じように、この櫛を売れば牛を買えるだろう。

 しかし、イリソスは迷いを覚え、それを仕舞った。代わりに彼は自分の櫛を取り出す。ニエロ黒金塗布とふされたそれもクロエにもらった充分、贅沢なものだった。

 彼は動かない牛に近寄ると、その櫛で毛をそっとかす。牛の眼はまどろみかけ、呼吸する体の伸縮がゆるやかになって行くように見えた。イリソスは静かに静かに牛をく。


 その時、突然、櫛の歯はひとまとめに折れた。

 心臓がね、イリソスは櫛に顔を寄せる。そして、間近に見たその折れ口に彼は更に息を飲んだ。

 根元から失われた鼈甲ケロネの歯。その断面から、金の薄板が土台を挟んでいるのがのぞく。


「嘘つきの君らしい贈り物だ」


 苦い笑みをもよおしながら彼は櫛に額を当て、天を仰ぐ。涙に暈ける世界を振り払うと、雲の割れ目に落日を追うプレアデスが見えた。

 イリソスは彼女に問いたい衝動に駆られる。何かを成そうとするならばクロエはどんなものも惜しみなく手放すか、と。



――宝に身を飾ることの許される女神の似姿に生まれながら。

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