第18話 恩寵の山

「海神が来る! 山へ逃げろ!」


 ラウレイオンの大地が揺れた。屋根や壁の崩れる中、男が叫びながら町を走る。人々は夢中で斜面を駆け上がり、魔女をいとうさえかなわなかった。海は山裾を超え、彼らに迫って大地をぐ。

 漁港の住人達は茫然ぼうぜんとよろめき、山腹に残された松の元で多くが座り込んだ。


「舟が……」

「舟どころか松もこんなだ! どうやって暮らせば……」


 狼の目を持つ老女が小柄な若者の背から下り、彼らにゆっくりと語りかける。


「松を捧げたから海神は私らを飲まなかった。半神の御方おかたが植えてくださった松だ。私らも植えよう。ほら、まだ残ってる」

「育つまで何年かかる! 俺達は神の命を持ってない! 今! 必要なんだっ、生きる手段が!」


 重い沈黙が漂い、彼の肩に老女を背負って来た男が手を置いた。


「まず寝床を探そう。魔女の町なら……」

「そんな所! 嫌!」

「麓の方がましだ!」


 その時、再び地面が荒ぶる。悲鳴が響き、子供達は泣き出した。

 小柄な男は日焼けした顔をませる。


「俺が魔女に捕まって時を稼ぐ」

「なんで、お前が!」

「だって母さん、魔女は働き者の小男を好むんだろ?」


 狼の目の老女が不屈の石アダマスのついた留め具を服から外し、彼の衣に刺す。火種を持つ者は油壷に軸を作って火を移し、枝束と共に青年に渡した。

 彼は横穴へ入ると枝に火を点し、炎の払う闇の隙間に歩を進める。分かれる行方の一方を選んで奥を目指せば緑がかって透き通る石がえていた。


「石の花?」


 火を近付けた後、彼はそれらを踏み越え、踏み越え、更に行く。ふさぐような岩には文字が刻まれていた。


亡者もうじゃの地。生者に加護なき冥途めいど


 警告の主が誰であろうと退く訳には行かない決意が彼に障害を超えさせる。

 進む程に行く手は幾重いくえにも分岐した。ほらは青カビに似た粉に覆われたと思えば、四方八方から氷が生える。男が幻術を疑い、触れると案の定、その塊は冷気を伴わなかった。

 洞穴の肌は時に青白く不気味に盛り上がり、時に美しい色に染まる。更に煌めきが彼を惑わしにかかった後、空腹を見透かすように脂肉が現れた。それら全ての脅しと誘惑を男は振り払う。


 そして、彼はそこに立った。

 屈んで尚、潜り難い隙間をのぞき込めば、天井は雲が凍ったような純白に輝き、床は一面、孔雀緑くじゃくみどり紺青こんじょうの石が花開く。地下の花に阻まれる中央では岩が赤いウロボロスをかぶっていた。


カイロス時機を求めし者、孤独を捧げよ』


 明かりを受け、岩に刻まれた文字は語り出す。


なんじ、一生の孤独をにえに必要のみ取れ。不要に取れば、亡者は冥より溢れ、生者に及び、山は眠りより醒め、竜と化す。去れ。かえるな。忘れよ。冥府の忘却に全てを失いたくなくば』


 青年は濃紺の石の折れたひと欠片に手を伸ばした。

 不意に洞穴は揺れ、白い石が落ちる。男は亡者の目覚めを恐れて強張るが、振動は間もなく鎮まった。彼は躊躇ためらいながら落ちた石も拾い、後ずさる。

 燃え尽きる枝を捨て、小さなほむら一つを頼りに彼は幻惑の道を再び通り抜けた。試練にったか、不屈の石が守護したか、外へ出た男は金剛石に触れながら、天を見上げる。そして、孤独と沈黙の呪いを思い、彼は覚悟を決めた。

 若者は虚ろな心を装い、魔女の町を歩く。やがて彼に気付く者が現れ、怯える声が響いた。その中から狼の目がゆっくりと彼へと近付く。


「金剛石を外してください」


 彼は青と白の石を差し出しながら心ここにあらずなていで言った。老女は少し首を傾げる。


「魔女に言われたかい?」

「はい」

「……その演技じゃ、すぐ皆にバレちまうね」


 彼女は人目から隠すように留め具を外しながら呟いた。狼狽する青年から彼女は青の石だけ受け取り、古びた白檀の櫛を握らせる。


「旧都へお行き。イリソス川の柳の下で学問する人に櫛を見せれば話は通じるそうだ」

「……その櫛、村を立て直すのに使って貰えませんか」


 すると、老女は鼻を鳴らし、金剛石を掌で転がした。


「心配なさんな。これは『魔女が宝を差し出してまで遠ざけた不屈の石』。お偉いさんに高く売りつけてやるから」


 避難民が山を下りた頃、男は姿を消し、魔女に喰われたとの噂も地震と復興の渦へともれる。

 石を学ぶ者によって純白の石に『ラウレイオンの石ローリオナイト』と名が付けられるのは、家族の立てた墓も失せ、誰も魔女を知らない遠い遠いクロノスの彼方。枯れた鉱脈には様々な石の花不凋花が咲き乱れていた。



<了>

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