第15話 石の脂

「クロエ、僕も頑張ったよ」


 松林を登りながらイリソスは呟いた。山の中腹に立ち並ぶ松の木の、半ば近くに樹脂を採ったあとがある。その姿は傷を隠さなかった彼女と似て、クロエが松の木に化身し、山を覆うようにも感じられた。

 しかし、ペリドット橄欖石の瞳の色を求めた瞬間、幻影は消える。

 イリソスは松から松へと伝うように歩き、鉱山跡へと帰り着いた。鉱山からダンジョン魔窟、そして、魔女の棲処すみかへと流転した闇への入り口は昔と変わらず、そこに開いている。


「君がここから帰らなくなって、どれ位かな?」


 イリソスは伸びたひげと皮のたるむ両腕を眼前にもたげた。そして、筋張った脚でよろめきながら、その穴へと吸い込まれて行く。

 間もなく陽光の届かない暗黒の気配が彼の前に現れた。若くしてこの地を訪れながら、今この時まで踏み入れたことのない境にイリソスは立つ。彼が目をそむけ続けた坑道の闇は、身を投ずるかと問い掛けていた。

 不思議と迷いなく彼は歩を進めた。岩壁にも気付けず鼻頭はながしらを打ち、足元の突起につまずいて倒れ込む。動く度、黒闇はイリソスに襲い掛かり、痛みと混迷を与え始めた。そこを手探りでい、幾度も枝分かれした道を選ぶ。

 やがて周囲の温度が上がり、地の奥底へ進んでいることだけ、坑道は彼に教えた。


 体を支える地は傾きを急にし、脂汗が手の甲に、石に、落ち続ける。イリソスは肩で息をしながら姿勢を保った。休息を求めて動きを止めようとも、急勾配にしがみ付く関節は悲鳴を上げ、その肉体を熱が容赦なく蒸し上げる。

 消耗し切った体からポタポタとあぶら混じりの汗がいつまでもしたたり落ちた。まだ生きている、まだ余力がある、と闇の果てから何かがイリソスをあおる。その身の枯れるまで全てを捧げなければ、ここで望むものは得られない予感が彼の頭をかすめた。


 身の脂を石にきょうし尽くした、と思える程、更にイリソスは這い進む。朦朧もうろうとした意識に慣れる頃、その指が不自然な物に触れた。人の技の感触にすがるかの如く、彼はそれをまさぐる。両の掌はそれがオイルランプ灯明皿と見出した。

 反射的に手は自然と火種容ひだねいれへと動き、明かりをともそうと試みる。

 最早、見てさえいなかった視界を小さな炎が揺らした。イリソスは焦点を合わせようと力を振り絞る。


 その時。


「――――――!!」


 彼はかわきで声にならない叫びに喉を震わせる。

 そこには骨が積み上がっていた。いや、彼の伏せているのが骨の上なのだ。カラカラと軽い感触に気付き、咄嗟に跳ね起きたがる衝動も最早、イリソスの体を動かせなかった。

 彼の体から急速に力が抜け、肉が、皮膚が、髪が潤いを失って行く。その石化するような感覚から現実の前にクロエの魔法が尽きるのを彼は悟った。



――僕の体から脂は尽き、この手からもラウレイオンはこぼれそうだ。

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