第 7話 苦土

「行って来るわね」


 アルクトゥロス大角星の昇るあけぼの、クロエは坑口前で車を降り、短く告げた。彼女は松明たいまつを手に闇へにじり寄ると、置かれたオイルランプ灯明皿へ火を移す。


「迎えに入ってはダメよ?」


 イリソスの心を読んだように彼女は振り返った。後を追いたげなイリソスの様子に笑みを浮かべ、クロエは松明を坑口の篝籠かがりかごす。火明かりが顔の白さに血色を添え、闇との狭間はざまで彼女は若やいで見えた。

 オイルランプを手に取ると再びクロエはイリソスに背を向ける。今も見送るしかないその後ろ姿がダンジョン魔窟へ入る挑戦者のものと違うことは彼にもわかった。


 イリソスはクロエのキトン麻服が光をはじかなくなるまで見届け、乗る人のいなくなった車へと向き直る。柳を編んだ床に積む土はだいぶ固められていた。彼は底に敷く布ごと、それを揺すってほぐし、踏鍬ふみぐわを取る。

 鉱山町の跡を離れ、山腹に出ると彼は鍬を踏み込んだ。乾いた表土を幾度も掘り起こすと、更に石と苦土にがつちが出る。それを繰り返し、彼は目立つ石をけてみた。


「こんな土で育つのか……?」


 まだ光にかたよる季節の太陽が天頂近く昇るまで待てず、イリソスは座り込む。およそ五十歩ごじゅっぽ四方しほうの広さが乱雑に掘り返され、大地にささやかな菱形ひしがたを描いていた。

 彼には耕作の経験がない。しかし、オリーブ橄欖やイチジクの農園は身近にあり、そこで耕される土との違いは見て取れた。地面についた手が苦土へと食い込み、かたまりのボロボロと崩れ落ちる感触に不吉を感じ取る。

 イリソスは倒れるように、その上へと寝転んだ。太陽は容赦なく照り付け、逃げ込む影もない。あおげど、晴れ渡った空には、これから必要なことの指針などなかった。


「本当に、僕は使えない……」


 この体に強さがあれば、がむしゃらにこの地を掘り起こせただろう。

 この頭に賢さがあれば、何をすべきかわかっただろう。


 思っても仕方ない引け目にとらわれながら、イリソスは天を見つめる。

 かつてラウレイオンには猛者もさや賢者がいた。中には姿まで神々に似ると讃えられる者もいた。しかし、彼らではなく、自分がクロエとここにいる、その理由をイリソスは見出せない。見えない奥には、扱いやすい男として選ばれた、という疑念が隠れていた。

 それをさえ受け入れたつもりでいたイリソスだが、彼女と離れ、目前の喜びを失うと、眠っていたものが暗がりから湧き出て濃さを増す。



――どうして君は僕を見つけたのだろう。

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