3、ノンフィクション(4)

 直接的な暴力を振るわれたのはこれが初めてだった。まるで僕は声の出るサンドバックだった。目の前にはビリビリに破かれた『青春の残滓』があって、僕がそれを取り返そうとすると殴られた。蹴られた。唾を吐かれた。投げられた。踏まれた。もうあまり記憶がない。痛いという感覚と、いつ終わるんだろうというという気持ちだけが僕の中に溢れる。三人がいなくなって、屋上に残ったのは僕とそして燃えて残りカスとなっていた『青春の残滓』だけだった。屋上の扉は鍵がかけられていた。外からでは開けられない。僕は屋上に閉じ込められていた。


 日が暮れて夜になる。学校には誰一人として残ってない。僕が屋上に居ることなんて誰も知らない。明日は体育祭が行われる。きっと校舎内に人が入ることも少ない。下手をすれば僕がここにいることが明るみになるのは体育祭後の休日と振替休日を挟んだ次の火曜日なのではないだろうか。屋上から見下ろす学校の景色が歪んで見えた。白い線を引かれた校庭、放送委員用に建てられたテント、全てがグラグラと揺らいで見える。


 ああそうか、って思った。そういうことかって思った。


 僕はもう残りカスですらないんだ。


 『青春の残滓』の燃えカスは風に乗って飛んでいく。僕の手のひらから『青春の残滓』はトロリトロリと落ちていく。そしてふわりと舞う。もうカスですらない。もうここに存在すらしていない。


 そうだ。そういうことだ。僕も最底辺らしく。トロリと落ちてやろうじゃないか。明日の朝、僕の死体は真っ黒な血に沈んでいるのだろう。これが僕の最期。僕らしい最期だ。


 腰の高さほどのフェンスを乗り越える。下は見ないようにした。トロリと落ちた僕が一体どこに落ちるのかなんて知りなくなかった。僕は残りカスですらない。ふわりと舞って存在すらもなかったことになるのだから、落下地点を知る必要なんてない。


 安藤、今まで本当にありがとう。お前のおかげで楽しい人生だった。そしてごめん。僕はもう限界だ。もし佐倉とこの先会うことがあったとしたら、その時はよろしく伝えてくれ。


 僕は握っていたフェンスから手を放す。ふわりと宙に飛ぶ感覚があった。長い時間に感じられた。これが一瞬だなんて思えなかった。いろんな思い出といろんな思いが沸き上がってきて、それが一つずつ消えていくのを感じる。安藤との思い出。そして佐倉への想い。僕の人生のほとんどはこれに集約されていた。もっと楽しみたかった。もっと安藤と話したかった。佐倉とももっと仲良くしたかった。本当は色々伝えたかった。


 もっともっと、僕は。最底辺でも良い。惨めでもいい。


 もっとしがみついていたかった。

 もっともっと、生きていたかった。


 僕は。まだ。


 死にたくなんてない。


 本当は、もっと生きていたい。

 嫌だ。

 こんな終わり方。


 僕にはまだ……やり残したことが……。


 その時だった。


「ふざけんな!」


 誰かの叫び声と同時に、宙に浮いた僕の腕を誰かが掴んだ。


「なにやってんだよ! バカ!」


 僕は屋上から落ちることなく、一人の男の手によって屋上からぶら下がっていた。


「手放すなよ」


 僕の腕を掴んでいるのは安藤だった。何とか僕を引き上げようとしてくれているが、安藤の腕力では、僕の腕を離さないようにするのが限界だった。


「安藤……ごめん」


「うるせえ! 上がってこい!」


「無理だ」


「無理じゃねぇ!」


「ありがとう……安藤。僕はもうそれだけで十分だよ」


 安藤は片手をフェンスから放して僕の腕を両手でつかみ上げる。


「ふざけんな……お前がいなくなったら来週のジャンプ読めなくなんだろうが。だから絶対助ける。絶対死なせない。勝手なこと言ってんじゃねぇ」


 ザザザと音がした。この音が安藤が足を滑らせた音であることに気付いた時には、僕も安藤も屋上から飛んで、宙に身を投げていた。二人揃って落ちていく。さっきは長く感じたのに、落ちている時間は一瞬だった。僕はこうして、最期を迎えたはずだった。


 どういうわけか、目が覚めた。どうやら眠っていたらしいが、おそらくたかだか数分のことだったのだと思う。空は真っ暗で星は一つも見えやしない。


「起きたか」


 安藤の声だ。隣で安藤も寝ていた。


「明日が体育祭で良かったな」


 安藤の言っている意味はすぐにわかった。僕と安藤の下には放送委員の為に作られたテントの残骸があった。僕らが落ちた先にはどうやらそのテントがあったらしい。そのおかげで僕らはなんとか助かって、屋上から落ちたというのにかすり傷程度で済んでいた。


「明日はテントを壊した犯人さがしから始まるな」


「まぁ僕も清嶋も、疑われることはないだろ。なんて言ったって僕らはいつだって蚊帳の外だからな」


 僕はすっと立ち上がって、安藤に手を差し伸べる。


「安藤……ありがとう」


 安藤は右手で僕の手を握った。


「なんだよそれ、だっさ」


 そう言って安藤は笑っていた。なんだか聞き覚えがあるような気がして、僕もつられて笑ってしまった。

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