第7話


 次の日の放課後だった。


 冬美先生にある話を持ちかけられたのは。

 今教室には、学級委員の仕事で遅くなった眞己のほかには誰もいない。


 ──昨日の今日で早速かよ!


 眞己はため息をついた。


「なんですか先生。今日は忙しいんですけど」


 今日はコンビニの夜勤がある日なので、その前にリンの食事を用意しておかなければならないのだが。


「それでは手短に済ませます」


 氷のような冷たい声だった。それに負けないぐらい冷厳な容姿。


 それに威圧されそうになりながらも肩をすくめて視線をはずすことで自分を保つ。


「そうしてくれると助かります」


「姫宮燐さんについて──詳しく教えてほしいの」


 予想以上に近くで声が聞こえた。冷えた声色が脳の芯を凍えさせたような錯覚を覚え、甘く脳を痺れさせるような匂いが鼻孔を刺激した。


「もちろんただで、とは言わないわ。それ相応のお礼はするつもりよ」


 目の前に冷たい美貌があった。ひんやりとした手がいつも間にか頬をなでている。


 ヤバイと思った。これは危険だと脳の片隅で警鐘が鳴っていた。それなのに、彼女の色香に背筋が震えるのを止めることができなかった。


「ねえ、彼にはどんな趣味があるの。嗜好は。苦手なものは。どんな些細なことでもいいの、──教えてくれない?」


 吐息交じりの囁きが耳朶を刺激した。いつの間にかネクタイはとられ、ボタンが外されている。この誘惑にのってもいいんじゃないか? 理性と相反するものが脳裏でそう囁いている。


「ねえ──お願い。教えて──」


 その声に理性が崩壊する音が、聞こえた気がした。


 それでも──


「先生。セクハラですよこれ」


 そう言って、冬美先生から身を離した。彼女が冷たい瞳を見開いた。まるで自分の誘惑を撥ねつけられるとは考えてもみなかったというように。


「さっきの話はお断りしますよ。それに──」


 胸元のボタンを直しながら、


「──人の秘密を探ろうだなんて趣味悪いですよ」


 鞄を持ち、ネクタイを片手に教室を後にした。


 そして──


「危なかった……」


 教室からかなりの距離をとると壁に背をあずけ座り込んだ。心臓がやけに大きく踊っている。ベトつくような汗が止まらなかった。

 もう少しで喋るところだった。なんだったんだろうさっきのは、まるで自分が自分でなくなるみたいに思考が薄れていった。


「ふん、命拾いしたな」


 ハスキーな声がすぐ近くで聞こえた。視線を横先刻いに移すと壁に背をあずけ片手にメスを持ちながら美貌が獰猛な笑みを浮かべていた。


「鳴海先生……、いつからそこに?」


「お前が来る前からここにいたよ」


 まったく気がつかなかった。


「にしても、伊集院家が仕掛けてきたか」


「その矛先がどうしてオレに向くのかが疑問だけど」


 ため息混じりにそう言うと、鳴海先生は唇の端を吊り上げた。


「よく我慢できたな、さっきは」


「ええ、それはもう。命がかかってますから」


「ふん、それだけであのこうの効果を断ち切ったのか」


「香……?」


「ああ、伊集院家が使う人心操作用の香だ。ひと嗅ぎで思考が鈍り、ふた嗅ぎで理性を失うといわれているが、謳うほど強力じゃなかったのか、それとも……」


 ここで鳴海は嫌な笑みを浮かべた。


「まあ、それはどうでもいい。この調子で燐の秘密を護ってくれよ。ただ、それを破ったときには──わかるよな?」


 鳴海先生の持ったメスが凶悪に光を反射し、その存在を主張していた。なんというか言外の言葉ってここまで怖いものだったんですね。


 そして、その言葉を残して彼女は去っていた。汗は冷え切り寒気がしてきた。多少マシになると思い、持っていたネクタイをしようとして、手が震えてうまく結べないことに再びため息を漏らした。

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