Running Poet

矮凹七五

第1話 Running Poet

 一人の男が草藪くさやぶの中を走っている。よわいは四十くらいだろうか。

 男の走る速さは、尋常ではない。馬に乗って追いかけても追い越せない程の速さで走っている。

 草藪の中を走り抜けた男は、やがて山林の中に突入する。


 山の中には多数の木々が生い茂っている。男は木々をかわしながら、速度を落とす事なく走っている。

 男の前に一匹の黒い熊がいる。胸の所に白い三日月模様を持つツキノワグマである。成長した個体なのか、大きさは大人の男と同じくらいである。

 大抵の者が恐れをなしてしまうような獣だが、男は恐れる事なく熊に向かって走っていく。

 あまりの速さで走って来る男を見て、恐れをなしたのか、熊は、ブルッと体を震わせた後、横の方に飛んで、男から逃げるようにして走り去った。


 山林を駆け抜けた男は、農村に辿り着く。

 田んぼと畑が広がるのどかな農村である。

 例え雰囲気がのどかでも、男の足が止まる事は無い。

 男は相変わらずの速さで畦道あぜみちを駆け抜ける。


 農村を抜けた男は、町に辿り着く。

 多数の民家や店が立ち並び、老若男女様々な町人達で溢れている。

 にぎやかな町である。

 男は民家の前に来ると、天高く跳躍して屋根の上に着地。そこからまた跳躍して、別の民家の屋根に着地。

 男は、家々の屋根から屋根へと次々と飛び移りながら進んでいく。


 ここは屋敷内の庭園。

 庭園には、いくつもの庭木が植えられており、岩で囲まれた大きな池もある。

 美しい庭園である。

 ここでも男は走っている。

 男の走る先には池があるが、男はそのまま走っていく。


 男は池に突入した。

 しかし、男が沈む事は無かった。

 男は水の上を走っている。バシリスク――中南米に生息するイグアナ科の爬虫類――のように。

 足が沈み切らない内に足を上げるという動作を、素早く繰り返しながら、走っているのだ。

 男の視界に一匹の蛙が飛び込んできた。黄緑色の背と白い腹を持つ可愛らしい蛙である。

 蛙は岩の上にいたが、やがて池の中に飛び込んだ。ばしゃっ!

「!」

 何を思ったのか、男は神妙な顔つきをしている。

 しかし、神妙な顔つきをしたところで、男の足が止まる事は無かった。



 隅田川近くの庵に沢山の俳人が集まって、句合くあわせ――優劣を競う俳句の詠み合い――が行われている。

 沢山いる俳人の中に、先述の水上を走ってきた男がいた。


 ばしゃっ!


 何かが水に飛び込んだような音が、男の耳に入ってきた。音のした所は、庵の外と思われる。

 男のまぶたの裏に、岩の上にいた蛙が池に飛び込む光景が浮かぶ。池の上を走っている時に見た光景だ。

 何か因縁めいたものを感じたのか、それとも神の思し召しおぼしめしを受け取ったのか、男の顔つきが神妙なものになる。

 ――蛙は言っているのだな。私に一句詠めと。ならば、遠慮なく詠ませてもらうぞ。

 俳句を詠む前に男は深呼吸する。そして――


「古池や かわず飛び込む 水の音」


 男は言葉の一つ一つに魂を込めた。

 男が俳句を詠み終えると、周囲から「おおーっ」という声が上がった。

 伝説の一句が誕生した瞬間である。

 皆、男が詠んだ俳句に感心しきっているようである。

 この俳句を詠んだ男は松尾芭蕉。後に俳聖と呼ばれる人物である。

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Running Poet 矮凹七五 @yj-75yo

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