雨の切れ間に

瑞樹(小原瑞樹)

鈍色の情景

 こんこん、と誰かが窓を叩く音が聞こえた気がして、僕は窓の外に視線をやった。

 だがそこには誰もいない。窓には無数の水滴が散らばり、格子こうし模様を形成している。僕はそこで、今の音の正体が雨粒だったことに気づいた。

 僕は自宅のリビングからその光景を見ていた。テーブルには食べかけのトーストと、冷めたコーヒーが並んでいる。平日の午後のこの時間は車の騒音もなく、僕は雨の音に耳を澄ませながら、その灰色の世界に身を委ねることが出来た。

 この鈍色にびいろの空の下で、人々はどんな風に過ごしているのだろう。駅の入口では、傘を忘れたサラリーマンが立ち尽くし、鞄を頭に乗せて家まで全力疾走するか、それともコンビニに立ち寄ってビニール傘のコレクションを増やすかで頭を悩ませているのだろう。向かいのマンションでは、主婦が天に向かって悪態をつきながら、干したばかりの洗濯物をせっせと取り入れているのだろう。でも近所の通学路では、ぴかぴかの長靴に小さな足をしまい込んだ小学生が、わざと水たまりにはまってはきゃっきゃっと声を上げているかもしれない。そんな情景が、まるで目の前で見ているかのように僕の眼前に浮かび上がってくる。

 でも実際に僕の目に映っていたのは、窓ガラスをしたたり落ちる雨粒と、その向こうで蜃気楼しんきろうのように浮かび上がるコンクリートの塀だけだ。

 6月の下旬。止むことのない霖雨りんうを見て人々は嘆息するのだろうが、僕にはどうでもいいことだ。僕はただ、自分とは無縁の世界の出来事としてその光景を眺めているだけだ。

 頬を伝う雨粒の冷たさを感じることも、降りしきる雨足の音を聞くこともなく。


 僕の名前は遠野悟とおのさとる。今年で24歳になる社会人2年生だ。

 ただ、今現在の状態でいえば、僕は到底社会人とは呼べない。なぜなら僕は、ここ半年ほど引きこもり生活を送っているからだ。

 僕がどうして引きこもりになったのか。それは僕の性格に原因があった。僕はかなり敏感な性格で、誰かと話をしていると、その人の眉の動きや声のトーンから感情を察知し(それはおおむね不快な感情だった)、落ち着かない気持ちになることが多々あった。相手の何気ない一言で感情を大きく乱され、発言の真意を考えて夜眠れなくなることもあった。

 そんは僕にとって、様々な性格を持った人間が集まる社会に出ることは、獰猛どうもうな獣の潜む洞窟に丸腰で侵入するような危うさを孕んでいた。

 学生時代はまだよかった。クラスの中に何人かは僕と同質の人達がいて、僕は彼らとの関係に居場所を求めることが出来た。人気のない廊下や校舎の裏に集まり、自分達にしかわからない話をする。そんな時間を僕は何よりも愛していた。

 だが社会は、僕がそんな風に影の生き方を続けることを許さなかった。

 僕の存在は、会社という組織の歯車として組み込まれ、周りと同じように成果を上げることを求められた。同僚が課せられた仕事をすいすいとこなす中、僕は何時間もかけないと仕事を終わらせることが出来なかった。質問しようにも相手の顔色を窺い過ぎてタイミングを逃し、その人が帰る間際になってやっと質問することが多々あった。同僚との間には瞬く間に差がつき、僕は使えない人間として上司からののしられることになった。

 そんな日々を繰り返す中で、僕の心は野晒のざらしにされた中古車のように次第に朽ち果てていった。

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