エピローグ

 「もう一年経ったんだねぇ。」

 隣の席に座る女の子が、スマホで誰かと喋っている。

 パソコンから目を離し、肩を大きく回した。随分前に空になったカップをみやり、もう一杯飲もうと決めて席を立った。ふとお店の前に流れる川に目を向けると、遊歩道に植えられた桜の蕾が膨らみ始めていた。開花宣言が出るのもそう遠くはないかもしれない。

 最近の空はすっきりと青く晴れている。雨は嫌いじゃ無いけれど、連日降り続くと気が滅入ってしまう。ただ、これからどんどん暑くなるのかと思うと、憂鬱だし、まだもう少し肌寒いくらいでいいかもしれないと思ったりもする。穏やかな陽気がずっと続けばと、この季節になるとよく思う。


 二杯目のコーヒーを注文して席に戻る。窓際の席は最近のお気に入りだ。

 春めいた陽気の日が増えたからか、外を歩く人々の足取りはなんだか軽やかに見える。厚く重いコート姿が減り、春のコート姿が増えた気がする。


 本を小脇に抱えた女生徒が、一定の距離を置いて男子生徒と歩いている。絵本を手に、母親と手を繋いで歩く少年は、何やらとても楽しそうだ。ギターを背負い、ライダースを着た男の人は、一点を見つめるように、迷いなくまっすぐ歩いていく。

 急に、隣の女の子が立ち上がった。慌ただしくカバンを引っ掴んで、勢いよく外へ飛び出す。店の外には2人の女の子が彼女を待ち構えていて、恥ずかしげもなく勢いよく抱き合った。扉が閉まるその僅かな時間に、彼女たちの泣き笑いの嬌声が聞こえた。彼女が勢いよく開けた扉の方を数人が見ていたけれど、すぐに興味を失ったのか、手元のスマートフォンに視線を移した。


 買ったばかりのイヤフォンをつけて、遊歩道を歩く。この前まで枯葉ばかりを踏みしめて歩いていた気がするのに、今では地面に黄色い花が咲いていた。

 向かいから女の人が歩いてくる。女性のロングスカートが歩くたびに風に揺れて綺麗だった。女性とすれ違うと、その人からは、なんだか懐かしい香水の匂いがした。

 

 家に帰って、手を洗い、うがいをする。狭い部屋の中は、洋服が山のようになっているし、テーブルの上はパソコンが置いてあった場所だけが半端に空いていて、物が溢れていた。パソコンを定位置において、着ていた上着を脱いでクローゼットにしまう。

 「もう一年経ったんだね。」

 そう隣の女の子は言っていたっけ。



 去年と変わらない私の狭い部屋。

 屋根裏部屋もないし、モヘアのショートパンツも、レッグウォーマーもない。でも、ずっと敷きっぱなしだった私の布団は、ちゃんと押し入れにしまってある。

 

 ほんの少しずつ沈んだり浮いたりを繰り返して、日々生きて行くんだろうと思う。急に大きく何かが変わることはなくて、私に起きる出来事も、小さな小さなものに過ぎないし、ドラマのような日が来ることも多分ない。

 でも本当に少しずつ少しずつ、何かが変わっていく。昨日まであったはずの店は別の店に変わっていたり、電車で乗り合わせる人々の顔ぶれも毎日ちょっと違っている。

 ベランダから顔を出せば、あんなにも冷たかった風も、ほんの少し穏やかな風に変わっている。夕暮れはまだ寒いけれど、それでもどこか遠くに春の匂いがする。

 

 十二ヶ月、三百六十五日。人々に等しく訪れる年月としつき

 季節を忘れ、そして思い出しながら、毎日をこの先も生きて行くのだと、私たちは本当はもう、知っている。

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StarGazer ちぃまゆちゃん @mayulolirockba

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