安らぎ

「ようこそお越しくださいました。女将の涼月と申します」


 あいさつをしながら、にっこりとほほ笑む女将を見て、僕の世界は一転した。目の前に大きなお花畑が広がり、ぷりぷり生尻の天使くんたちが三人ほど宙を舞い、暖かい風が背後から吹き上がり、ダバダ〜、と気分が高揚するような効果音が聞こえてくる。


 というのは、もちろん全て僕の頭の中で起こった出来事なのだけれど、そのくらい、女将の安らぎパワーは強力だった。


「ナツくん、ナツくん!」

 恋人の文郁あやのちゃんに肩を揺さぶられて、僕はハッと我に返った。じっと僕のほうを見つめる文郁ちゃんの目は(他の女に見とれてるんじゃねー。でも、私もさっきまでナツくんと同じくらいワープしてたから気持ちはわかるよ。ウワサ通り、ここの女将の安らぎパワー、半端ないね)と、言っている……と思う。


 ここ『安らぎ旅館』は、文郁ちゃんが見つけてきてくれた。なんでも、文郁ちゃんの弟のまーくんが、夫婦で泊まったところ、まーくんの頑固な肩凝りと、奥さんの偏頭痛がいっぺんに治ってしまったらしい。それ以外にも、不妊治療していた夫婦が一泊しただけで子どもを授かったとか、経営不振に悩んでいた社長が三泊したら、その後ウソのように業績が急上昇したとか、『安らぎ旅館』のとんでもない安らぎパワーにまつわる話は、枚挙にいとまがない。


 特に、女将の涼月さんは『安らぎの魔女』という異名で、界隈では超有名人らしい。その姿を見るだけで、セロトニンとドーパミンとアルファー波がいっぺんに体内を駆けめぐり、声を聞いたら人体の電池が100%まで充電されるという噂だ。その噂を聞いたときは、「ははは。すごいね〜」と文郁ちゃんと二人で笑い合っていたのだが、今、女将を目の前にして、この人は本当に魔法が使えるんじゃないかと驚いている。日頃の疲れが溜まってたのと、長距離のドライブでへとへとだったのに、女将に笑顔で迎えられたとたん、頭も体も10時間ぐっすり眠ったあとのようにスッキリしている。


「お疲れでしょう。もうご飯になさいますか?」と女将が美しい声で空気を震わす。

「は、はい♪」とにやけ顔で返事をする僕にかぶせるようにして「お、女将!」と文郁ちゃんが大声を上げた。

「あの、この旅館、女将が一代で築かれたんですよね? ちょっとお話しを伺いたいんですが」と意気込む文郁ちゃんを、女将はきょとんとした顔で見つめた。

「私なんかのお話相手になってくださるんだったら、喜んで……と言いたいところですが、晩御飯の給仕がございますし」

 女将が残念そうにほほ笑む。


「ぼ、僕がやりますよ、給仕なんて」と気がつけば言ってしまっていて、ん? と思った。

「僕、美容師なんで、立ち仕事と接客は慣れてますし」え? なんでそんなこと言ってるんだ? と頭の中がクエスチョンマークでいっぱいなのに、僕の口は止まらない。僕だって、ゆっくりしたくてここに来たのに。

「たまには、女将さんこそゆっくりされたらいかがです?」僕はそこで茶目っ気のある笑顔まで浮かべた。

「まさか、お客様にそんなことをさせられません」と速攻で辞退されると思っていたのに、「じゃあ、ちょっとだけ、お願いしてもいいですか?」と上目遣いをされて、僕は「喜んで」と快諾した。ええ? なんでそんな流れに?


「厨房は廊下の奥を右に曲がったところにございます。料理長のロンと見習い料理人のすぐるがおりますので、詳しくは二人に聞いてくださいね♡」


 一体何が起こったんだろう、と狐につままれたような気持ちで、僕は厨房へ向かった。


 厨房では、料理人らしき二人が、忙しそうに働いていた。

「優、天ぷらが揚がったから、急いで盛ってくれ!」

「はい、ロンさん!」

 二人は、あうんの呼吸でテキパキと準備を進めている。配膳用のお盆には、美味しそうな料理の数々が彩りよく盛られていた。

『ロンさん』と呼ばれた料理人を、僕はじっと見る。若い女性なのに、料理長とは驚きだ。っていうか、『ロンさん』て何人なにじんなんだろう。いかにも親方みたいな口調だけど、外国人っぽい訛りがある。どこで日本語覚えたのかな。旅館の懐石料理なのに、ガラムマサラの匂いがほんのり漂ってるのはなんでだ……?


「そこの新人、これを『松の間』まで持ってってくれ!」

 僕を見て『ロンさん』がそう言った。

「え? いや、わたくし、実は宿泊客でして……」そうしどろもどろになった僕に対して「大丈夫ですよ。みなさんそうですから」と『優』のほうが笑顔を向けた。

「さあさあ、天ぷらが冷めますから、早く。あ、そこにあるお仕着せを羽織ってってください」

 有無を言わさずグイグイと迫られ、僕は素早くお仕着せを羽織ると、お盆を持って『松の間』へと向かった。


『松の間』に入ると、なんと、関西出身の人気アイドル『あいる』が座っていて、僕はお盆を取り落としそうになった。

「あ、ご飯来たで〜♡」とあいるさんが話しかけた相手は、同じく関西出身の人気ユニット『くまでKIKAKU』の長谷川くんだ。付き合ってるってウワサは本当だったのか。これは、文郁ちゃんに報告しなくちゃ。


 二人があんまり楽しそうにおしゃべりをしているので、僕は邪魔しないように、御膳を置くとすぐに部屋を出た。作者は関西弁の会話なんて書けないので、内容は割愛しておく。


 厨房に戻ると、今度は『竹の間』に御膳を持っていくように支持された。さっき持って行ったものより、ゴージャスさにやや欠ける気がする。ここの旅館はどうやら三部屋しかなく、『松』『竹』『梅』とそれぞれ名前がつけられているようだ。あまりにあからさますぎやしないか? 今までなんとも思ってなかったけど、僕と文郁ちゃんの部屋は『梅』だ。広さが、さっき入った『松の間』の半分もない。


『竹の間』に料理を持って行った後は、とうとう『梅の間』だ。これで、やっと文郁ちゃんとゆっくりできる。『梅の間』用の料理は、気のせいかな。『松』と『竹』に入り切らなかった料理でできてないか? 


 釈然としないまま、僕は『梅の間』に料理を運んだ。

「あ、ナツくぅん」と僕を上機嫌で迎えた文郁ちゃんは、すでにすっかり出来上がっていて、赤いほっぺに、目がとろんとしている。

「ごめんなさいねぇ。先に飲んじゃってた♡」と笑う女将の顔も赤い。

 え!? 仕事中ですよね?

「わ〜! おいしそう〜」と僕が持って来た料理に目を輝かす文郁ちゃんとは対照的に、女将は憮然とした表情だ。

「ロンちゃん、『梅』にはこの程度しか出さないのねぇ。一泊二万円だからしょうがないかしら」

 と女将がブツブツ言っている。いや、そういうの、客の前でもらしちゃダメだろ?

「ナツくん、厨房に行って、伊勢海老のお刺身つくってもらってくれない? それから、お酒はぬる燗で」

「は、はあ……」

「返事はハイよ♡」

「ハイ!」


 どうしてだろう。女将にお願いをされると、なんでか従ってしまうんだよな。あの笑顔を見ると、何もかもどうでもよくなるっていうか。この状況、どう考えてもおかしいよな? おかしいのは僕のほうなのか? 


 たくさんのクエスチョンマークを頭の中に抱えながら、僕は厨房へ戻る。

「あの、優さん……」

「伊勢海老の刺身ですね。もうできてますよ」

「え?」

 優さんは慈愛を込めた目で僕を見つめた。

「大丈夫ですよ。みんなそうですから」

 それ、どゆことーー!?


 結局、僕はその晩、梅の間と厨房を何度も行き来し、ついでに松の間と竹の間の片付けまでさせられ、ゴミ出しと朝ご飯の仕込みまで手伝ったあと、部屋に戻った。


 文郁ちゃんはお布団の中で気持ち良さそうに寝息を立てており、女将は姿を消していた。僕は疲れ切っていて、お仕着せを着たまま気絶するように眠った。


 翌朝、僕と文郁ちゃんは、朝日の明るさと鳥の声で目を覚ました。


「ナツくん、私、なんだか生まれ変わったみたい。昨日あれだけ飲んだのに、朝起きたら頭もスッキリしてるし、体もすごく軽いの」

 そう言う文郁ちゃんは、確かに肌も髪もツヤツヤしていて、いつもよりさらにかわいい。

「そういえば、僕もすごく調子がいいな。やる気がみなぎってるっていうかさ。昨日は、晩ご飯も食べられずに働いて、クタクタだったのに、逆にそれで身体中の凝りがとれたみたいな気がする」

 僕と文郁ちゃんは手を取り合って、『安らぎ旅館』から見えるキラキラの朝日を眺めた。


『安らぎ旅館』に、万人を癒す安らぎパワーがあるのは本当らしい。そして、『安らぎ旅館』で一番安らいでいるのは、他でもない、女将だという……。


 ちゃんちゃん♪


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お題は「安らぎ」レギュレーションは「カクヨムメンバーを一人入れる」でした。

 

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