『三日月』(7/2 花金参加作)

 バスの窓の外に映る、彼が見ていただろう景色も見慣れてきた。

 町外れからの通勤、通学の顔ぶれはほとんど同じようなもので、朝は同じ便に乗り合わせるから変わり映えなく、帰宅は時間帯がバラけるからか、朝よりは人数が減っている。

 日没が遅くなってきて、窓の外に見える河川はまだ夕焼けを残した薄暗闇だった。街灯も少ない田舎道は冬には同じ時間帯でも真っ暗になってしまうから、夏場の日の長さはありがたい。だけどそんな小さな変化も、去年とは代わり映えがあるわけではなく、ただ繰り返している。


 バスで数分もかかって渡るようなこの大きな川では、毎年夏祭りの際に花火が上げられる。それがだけが一年の中でこの河川の一大イベントだ。いつ見ても人の気配がない、手入れもおろそかな川べりは、祭りに向けて手入れされたのか散切りの草がポッカリと土手を空白に見せていた。細い三日月が、まばらな電灯に交じって川面と草の断面にキラリと淡い明かりを反射させている。

 こんな急ごしらえを気にもとめず、祭りの時には華やかな姿の人で賑わう。幸いこのバスの路線は混み合わないものの、窓から賑わう人波がよく見えた。

 私がバスに乗っている時間帯は、花火を待ちながら出店を冷やかしている頃合いだろう。熱気が伝わって来そうなほどぎゅうぎゅうにひしめき合って楽しそうに笑い合う姿を、私は毎年ガラス越しに遠い世界であるかのように眺めていた。


 ふと思う。同じ時に、彼はどんな気持ちで窓の外の賑わいを眺めていたのだろう。

 自分とは縁がないような賑わいを。沢山の笑顔やはしゃいだ姿を。窓一枚隔てただけで、まるでモニター越しであるかのような他人事のイベントを。どんな気持ちで。


 きっと私と同じなのではないかと思った。

 私には、関係のない世界。私はあの中に混じれない。ひしめき合う人に気後れして、混じりたいとは思えなかった。

 でも、本当は。私はあの熱気の中に飛び込んで、どこか冷めた目で観察していた、浮かれた人間になることだってできる。ただいつも、そんな勇気がなかっただけだ。

 他人事の世界に面と向かって別れが言えず、でも黙ってもいられなかったような、ひっそりと一言だけ綴られた別れの言葉。

 彼もまたあの人波に憧れながら、踏み入れることができなかったのではないかと思えた。


 目を閉ざせば浮かんでくる、毎年頭に焼き付いていた祭りの光景。その中を歩く私を想像した。

 ざわめきの雑踏。蒸し暑い熱気。踏み出すのも止まるのも上手くいかない人込み。笑顔と笑い声。

 出店を冷やかして歩きながら、つられるように笑顔で振り返る。


 目を開けると、そこには暗い土手の随分と手前、バスの明かりでガラスに反射した自分の顔。

 私はただ一歩踏み出すだけで、どんな世界だって自分のものにできる。

 彼にはそれが、もう永遠にできない。



 どれだけのものを、ただ見過ごしてきただろうか。

 自分には関係がない世界なのだと。そうやって、人と交わることが苦手なことへ言い訳をして。ただ、閉じこもって。自分は他とは違うのだなんて、都合よく解釈して。

 私は何ら特別でなんてない。

 心を揺さぶる何かからずっと逃げてきた。無感動に平穏に生きたかった。でも本当は、憧れていたのだ。色鮮やかな世界に。


 描きたいと思った。

 この世の楽しいこと全部。輝くもの全部。美しいもの全部。

 貪欲に、もう一分も見逃さないように。


 真っ白なカンバスに色を乗せる。


 春満開の桜並木。

 夏の河辺の花火大会。

 枯れて色づいた田舎道。

 寒空に賑わうイルミネーションの街並み。

 騒がしい学校行事。何気ないことだって、心が浮き立つ日常。

 もしも、私が見ないふりしていなければ、当たり前に手に入ったもので。

 視線の先に彼がいるなんてことも、有り得たのだろうか。



 重なるように、白い世界を染めていった極彩色の景観は、ほんの一部だけを残して塗り替えられて、まとまりなく輝く。

 いつしかそれは、彼にも見せたかったものでいっぱいになった。

 貴方にもこんな道があったなら。

 楽しいことがあるたびに、綺麗なものを見つけるたびに。私は四角く切り取られた世界に、色を乗せた。

 彼に語りかけるように。彼もまたこんな世界の中で生きていられたらと夢想して。

 私はたくさんの景色をカンバスの上に描き続けた。

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