幻想(5/14 花金参加作)

優奈ゆなに一度見せたかったんだ」

 乾いた風が吹き抜ける草原。青い空。高い所から照りつける太陽。ぽつりぽつりと生える低木。遥か遠くまで見渡せる地平線を遮るように、その端っこには小さく粗末な建物が見える。

 そんな幻想的な景色の中で、汚れてヨレヨレのTシャツとジーンズ姿の淳貴あつきは笑いながら私へと手を差し伸べた。


「いつも突然なんだから」

 拗ねた声で答えながら、私は淳貴の手を取って並んで歩く。

 帰ってきたね。

 いつだって、並んで歩くときにはその思いだけでいっぱいだった。

 繋ぐ手をぎゅっと握りしめる。今、淳貴がここにいることだけが全てだった。

 彼はいつだって、私を置いて行くのだから。

 私はいつもこの束の間のためだけに生きていた。


 淳貴と出会ったのは中学生の頃。

 彼の家庭は複雑で、在学中に警察沙汰を何度か起こしていた。

 淳貴が直接の原因ではないという事は知っている。けれど、淳貴は「決して関わってはいけない子」とささやかれていた。

 私が彼と接するようになったのは偶然だった。だけど、彼を知れば知る程、世間の言葉はただ冷たくて、正しい訳ではないのだと思うようになっていた。


 淳貴と仲良くなって、付き合うようになり、学生の間は当たり前の恋人でいた。

 だけど、淳貴にとってこの町は決して居心地の良い場所ではなく、高校を卒業すると共に、彼は世界を放浪するようになった。

 大自然の一部のような未開の地を訪れて、そこで生きる術を磨く事に喜びを感じているらしい。月日を経て身についたサバイバル能力を楽しそうに、誇らしそうに語る。

 暗く切ない顔を忘れたようなそんな姿を見ると、これが本当の彼らしさなんだと思えた。


 私は、普通に大学へ進学し、普通の事務職へ就いた。

 淳貴について行きたい思いはあった。けれど、私は酷いアレルギー体質で、定期的に病院に通う必要がある。そして緊急時に医療が受けられない地域に出向く事ができなかった。


 別れ話は再三した。

 その度に何の約束も出来ないという淳貴に、絶対に別れないと言い張ってきたのは私だった。

 彼がいない世界が想像できない。

 日常の中で私が嬉しかったことも、楽しかったことも、ただ彼の隣にいる一時に勝るものはなかった。


 毎日、空に願った。どこかで必ず彼の元へと通じている空へ。

 どうか、淳貴が元気でいますように。幸せに過ごしていますように。

 それは切なくて悲しくて苦しい事だったけど、時々思い出したように私の元へと帰ってくる彼に、ただそれだけで満たされてしまうのだからどうしようもなかった。



「やっぱり、帰ってきちまうな。何度も、もう帰ってこない方がいいって思ったけど」

 淳貴はいつも通りにそう言って、照れくさそうに笑う。


 足元の地面はでこぼこで、誰にもとがめられずに伸びた草の、活き活きとした根を踏んで歩くのは一苦労だった。不慣れな足元を当然のように気遣って、淳貴は繋いだ手で上手く私の動線を導く。

 どれだけ離れていても、こんなにもぴったりと。


 不意に足を止め、彼は振り返って私を見つめた。

「最後も、やっぱ帰ってきちまった」

 寂しそうに目を眇めて、彼は静かに微笑んだ。



 瞬けば、目の前にいつも見ている天井がある。

 まだ夢から覚めたくない。だけど、にじんだ天井が自分の部屋のものである事は嫌というほど理解していた。

 繋いでいたはずの、空っぽの手を握りしめる。

 淳貴に最後に会ったのは3年前。彼はもう、帰ってこないのだろう。

「どうか、元気でいて」

 虚しい言葉が、涙と共に零れ落ちる。

 彼の行く末を知る手立てなんてなかった。例え、どこかで果てていても。



 陰鬱いんうつな空はいつもにもまして鈍色で、肌を焼くような日差しも雲の向こう。

 湿った空気を吸い込み、深く吐きだす。そうやって今日も生きて行かねばならない。

 上の空を悟られないように仕事に励んで、朱に染まる前に色を落とした夕闇を家路に向かう。舗装されたアスファルトは一人でも上手に歩けた。


「ただいま」

 懐かしい声が響いて、不意に手を掴まれる。

 驚くと同時に、あふれる想いに抗えなくて、私はそのまま彼にすがって泣き崩れた。


 見慣れないスーツを、これでもかというくらい涙で染め上げる。

「……遅すぎる、よ…」

 私は、絶え絶えの声で何とか恨み言を紡いだ。

「ごめん。最後に帰る所がわかったから、ソッコー帰ってきた」

 悪びれなく淳貴は笑う。そこには、昔見せていた苦しそうな面影も、広い世界へと夢を見ているような無邪気さもなく、ただ、私だけを映していた。

「だからもう、どこにもいかない」


 生きていてくれただけでいい、そう思うのに。何よりもその言葉を待っていのに。心は全く素直になれない。

「私が、待っていなかったらどうしたの」

 涙声を隠しきれず、離してなるものかと彼のシャツを両手で握りしめているというのに、また覚めてしまうのが怖くて強がる。

「それでも帰ってきた。最後は優奈の近くにいたい」


 夢から覚めた。そこにある現実は、夢よりもずっと幸せだった。

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