間章 深海にて
闇の中でも
麗二の屋敷から遠く離れた海の底。光の届かない闇の中で、魔女は今日も鍋をかき混ぜている。
そこへぽんと何かが弾けるような音がして、桃色の煙の中からサラが姿を現した。
「……戻ったかい」
魔女が振り返らずに言った。魔女の後ろに立ったサラは、どこか思い詰めた顔をして、海底に沈殿した砂の一点を見つめている。
「それで? どうなったんだい」
魔女が促した。サラはなおも顔を上げようとはしなかったが、ようやく言った。
「シオンはあのナイフを使ったよ。リンナと同じように……泡になって、消えた」
「……そうかい」
魔女はそれだけ言うと、再び鍋をかき混ぜ始めた。鍋のぐつぐつと煮えたぎる音だけが辺りに響く。
そのうち居たたまれなくなったのか、サラが魔女の方に詰め寄って叫んだ。
「ねぇ……ホントにこれでよかったの? シオンは死んじゃったんだよ!?」
サラの悲痛な声が辺りに響いた。そうだ、最初からわかっていた。一度死んだ者が生き返ることなど、あり得ない。それをわかっていながら、自分はリンナやシオンにあのナイフを渡したのだ。純粋な想いが奇跡を起こすと、思ってもいないことを口にして――。
「……いいんだよ」
魔女が静かに言った。サラが訝るように魔女を見る。魔女は鍋をかき混ぜる手を止め、視線を落としたまま言った。
「ああでもしなければ、今頃あの子は愚かな人間どもに捕まり、見世物として一生を過ごすことになっていただろうよ……。あの子を人間どもの手から救うためには、これしか方法はなかったのさ」
「でも、だったら最初から、シオンを人間になんかしなきゃよかったじゃない」サラが反論した。「一度正体がバレたら、人間の世界で暮らし続けることなんかできない。そんなこと最初からわかってたのに……」
サラはなおも不服そうな表情を魔女に向けている。魔女は大きくため息をつくと、ゆっくりとサラの方に向き直った。
「いいかい、サラ。あたし達魔女の役目は、魔法を使って誰かの願いを叶えてやることだ。だがね、いくら魔法の力を持ってしても、誰かの運命を変えることまではできない。
だから、あの子が人間になりたいと言ったその時から、あの子の運命はすでに決まっていたのさ。あたしにはそれを止めることはできなかった。こうなることを決めたのは、あの子自身なんだよ」
サラはちらりと魔女の方を見やった。どこか達観した、突き放したような口調。それでもフードの隙間から覗くその目には、哀傷が浮かんでいるように見えた。
「あのさ、一つ聞きたいことがあるんだけど」
サラがふと思いついて言った。
「……何だい」
魔女がゆっくりと尋ねた。サラは眉間に皺を寄せ、魔女の顔色を窺うようにして尋ねた。
「魔女は、誰かの運命を変えることはできない。シオンが人間になりたいと言った時から、シオンの運命は決まっていた。バァさんはそう言ったけど、だったらどうしてシオンを助けたの?」
魔女が微かに目を見開いた。サラは続けた。
「バァさん、言ったよね。あたし達が手を出さなかったら、シオンは今頃人間の見世物になってたって。それがシオンの運命だったんでしょう?
なのにバァさんは、魔法を使ってシオンを助けようとした。それってつまり、シオンの運命を変えようとしたってことじゃないの?」
魔女は答えなかった。サラから視線を外し、すっと目を伏せる。サラは辛抱強く魔女の返事を待ったが、やがて痺れを切らした様子で叫んだ。
「ねぇ、ちょっとバァさん、聞いてる!?」
「……歌だよ」
「え?」
不意に発せられたその言葉が聞き取れず、サラはきょとんとして魔女の顔を見返した。魔女は大きく息を吐き出すと、ゆっくりと頭上を仰いだ。つられてサラも顔を上げたが、いつもと変わらない闇が広がっているだけだった。
「……こんな光の届かない場所にも、あの子達の歌は聞こえていた……」
魔女が感じ入るように呟いた。
「……どこまでも響き渡るような、あの優しい歌声……。こんな光も音もない暗黒の世界の中で、あの歌に、どれほど慰められたことか……」
サラは目を見開いて魔女を見つめた。闇の向こうに思いを馳せるようなその目。そこに小さく光るものがあったのは、きっと見間違いではない。
「……残念だよ。もう二度と、あの子達の歌を聞くことができないなんてね」
最後にそう呟くと、魔女は視線を落とし、再びゆっくりと鍋をかき混ぜ始めた。
そしてもう、二度とその話題を口にしようとはしなかった。
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