泡沫の愛

 その時だった。入口の扉が勢いよく開き、次いでどたどたとした足音が部屋の中に飛び込んできた。麗二はうっすらと目を開けてその方を見た。何人もの武装した警官が、入口から自分達の方に銃口を向けている。

「警察だ! 動くな!」

 その一言は、男達を牽制するのに十分な力を持っていた。男達が動揺した隙をついて警官達は部屋になだれ込んできて、男達は抵抗する間もなく取り押さえられた。尚慶もあっという間に拘束され、急に解放されたことで麗二は身体のバランスを崩した。

「坊ちゃま!」

 鳩崎が麗二の元に駆け寄ってきて、倒れそうになった彼の身体を支えた。床への衝突を免れ、麗二はふうっと息をつく。

 その時、警官の一人が麗二達の方に走ってきた。実直そうな顔をした若い警官だ。

「高瀬川麗二さんですね。お怪我はありませんか!?」警官が敬礼しながら尋ねた。

「これが無傷に見えるとしたら、眼科に行った方がいいと思うが……」麗二が困惑しながら答えた。「それよりも、いったいどういうことだ? なぜ警察がここに?」

「はっ! 実は先ほど、怪しげな男達がこの家に押し入るのを目撃したという通報がありまして、それで駆けつけた次第であります!」

「通報……」

 麗二は無意識のうちに鳩崎の方を見たが、鳩崎は困惑した顔で首を横に振った。

「あの尚慶という男は、以前から不当な手段を使って珍品を集めているとの噂がありました」警官が言った。「しかし証拠がなかったために、これまで逮捕することができなかったのです。ですが今回は現行犯、奴も言い逃れはできません」

 麗二は尚慶の方に視線をやった。悔しそうに顔を歪めて警官達を睨みつけながらも、どうすることもできずに連行されていく。それを見て、麗二は急に肩の力が抜けていくように感じた。これでもう、あの男に付きまとわれる心配はない。

「後ほど、また事情を伺うことになると思いますが、ひとまずこれで失礼します。あの男を取り調べなければなりませんので」

 若い警官はそう言うと、律義にもう一度敬礼をして去っていった。警官や男達がいなくなったことで、部屋が急にがらんとしたように感じられた。

「それにしても、いったい誰が警察を呼んだのでしょうか」鳩崎が呟いた。「屋敷の者は皆監視されていましたから、外部と連絡を取ることはできなかったはずですが……」

 麗二にも不思議だった。周辺に海しかないこの屋敷は外界から隔絶されていて、通りすがりの人間が通報したとも思えなかった。

「……まったく、あたしのことを忘れるなんて、薄情な男達ね」

 不意に後ろから知った声がして、麗二は驚いて振り返った。真っ白なジャケットとタイトスカートのスーツ、それにハイヒールという格好をした百合が、腰に手を当てて麗二達を見ている。

「百合さん!?どうしてここに……」麗二が目を丸くして尋ねた。

「どうもこうもないわ」百合が片手で髪を払った。「とびっきりのニュースが手に入ったから、すぐに知らせてあげようと思って飛んできたのに、ここに着いた途端、見るからに物騒な男が何人も家に入って行くじゃないの。あたしみたいなか弱い女一人じゃどうにもならないでしょ? だから応援を呼んだのよ」

 その話を聞いて、麗二はようやく合点がいった。警察に通報したのは百合だったのだ。

「それにしても、あんたもバカよねぇ」百合が呆れた顔でため息をついた。「いくら伯父様がいないからって、尚慶みたいな胡散臭い男を屋敷に入れるなんて、もうちょっと考えたらどうなの?」

 麗二はきまり悪そうに俯いた。いつもなら反論するところだが、今回ばかりは何も言い返せなかった。

「それで、何なんだ?そのとびっきりのニュースっていうのは」

 麗二が話題を変えるように言った。百合ははたと思い出した顔になると、麗二に向かってにっこりと微笑んで見せた。

「喜びなさい。伯父様が見つかったのよ!」

「何だって!?」

 麗二は思わず身を乗り出したが、途端に身体の傷が疼き出して、痛みに身体を丸めた。百合はやれやれといったように肩を竦めた。

「さっき会社に連絡が入ったらしいわ」百合が言った。「何でも、アメリカの古い知人から融資の話があって、それがちょうどあの会見の日だったそうよ。先方の都合もあったみたいで、伯父様はすぐにアメリカに経って、今日ようやく話がまとまったらしいわ。おかげで倒産は免れそうだけど、一言連絡くれればこんな大事にはならなかったのに。ほんと、周りの見えない人よねぇ」

 百合は呆れ顔で言ったが、それでも顔からは嬉しさが滲み出ている。麗二も肩の荷が下りた気がして、ほっと安堵の息をついた。会社の信用を取り直すには時間がかかるだろうが、今はとにかく父が見つかったことが嬉しかった。

「ところで、シオンちゃんはどうしたの? 姿が見えないみたいだけど……」

 百合が部屋を見回しながら言った。麗二も肝心なことを思い出し、当惑と焦りを浮かべて部屋を見回した。確かにシオンの姿は見えない。彼女はどこに行ってしまったのだろう。

 その時、麗二の視界にあるものが飛び込んできた。床に投げ出された真っ白なシーツ。その下からわずかに覗く、あの色は――。麗二は無意識のうちにその方へ歩き出していた。

 近くまで来たところで、麗二はその場に屈みこみ、そっとシーツを捲った。そこにあるものを目に留めた瞬間、麗二は驚愕に目を見開いた。

 薄暗い部屋の中でもなお鮮やかに見える、緋色のハイビスカス。それはいつも、シオンが髪に刺していたものだった。

 そして、それと折り重なるようにして落ちているのは――。

「麗二? どうしたの?」

 百合が後ろから覗き込みながら言った。だが、麗二の目の前にあるものを目にした途端、思わず息を呑んで足を止めた。

「そのナイフ……!」

 深海のような青色で覆われたナイフ。それは紛れもなく、七年前に美波子の命を奪ったものであった。

 それを見た瞬間、麗二は唐突に全てを理解した。あの判決の日、どうしてリンナが姿を消してしまったのか。そして今、どうしてシオンが消えてしまったのか――。

 時間が止まったかのように、麗二も百合もその場から動けなかった。事情のわからない鳩崎だけが、困惑した顔で視線を左右させている。

「シオン……」

 不意に麗二が呟いた。百合がはっとして顔を上げた。麗二は背中を丸めてうつむいたまま、震える拳をぐっと握り締めている。

「シオンっ……!」

 握り締めた拳の上に、一粒の涙が落ちる。それが合図となったかのように、麗二は勢いよくその場に突っ伏すと、子どものように大声を上げて泣き始めた。

「シオン……。シオン……!」

 何度名前を呼んでも、戻らないことはわかっていた。それでも呼ばずにはいられなかった。

 自分がしてしまったことの愚かさを、失ったものの大きさを、今さらのように感じながら。

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