第八章 愛の終焉

失えぬひと

 尚慶からの電話を受けた晩、麗二は自分の部屋のソファーに腰掛け、屈みこむような格好をしながら、組み合わせた自分の両手をじっと見つめていた。その向かい側に座っているのは、見事な仕立てのえんじ色のスーツに身を包んだ尚慶で、まるで自分の家にいるように寛いでソファーに身体を預けている。

 なぜこんな状況になっているのか、麗二は自分でもわからなかった。覚えているのは、朝方にこの男から電話を受け、そこで何か話をしたことだけだ。話の内容はもちろんシオンのことだろう。だが、なぜこの男が目の前に座っているのかはどうしても思い出せず、麗二達はさっきから時間を空費しているのだった。

「いやはや、まさかこうして坊ちゃまのお屋敷にお招きいただけるとは、さすがのあっしも想像していませんでしたよ」

 尚慶が言った。麗二が黙ったままでいるのを気にした様子もなく、上機嫌で身体を揺すっている。

「こうしてわざわざお招きいただいたということは、いいお返事をいただけると期待してもよろしいんでしょうな?」

 尚慶はそう言うと、じっとりとした視線を麗二の方に向けてきた。その言葉から、麗二は少しずつ事の次第を理解してきた。

 どうやらこの男をここに呼んだのは、他でもない自分のようだ。おそらく朝方に受けた電話は、シオンを売ることに対しての返事を促したものだったのだろう。

 だが、単に申し出を断るだけなら、あの電話だけでよかったはずだ。それなのに、わざわざこの男を呼び出しているということは――。おぞましい考えが麗二の頭を掠めたが、すぐにそれを打ち払うように頭を振った。

 尚慶はそんな麗二の様子など一向に構わず、相変わらず一人で喋り続けている。

「あっしは最初から信じておりましたよ。坊ちゃんなら必ず正しい選択をされるだろうとね。

 何もおっしゃらずともわかっています。あの人魚の姿を見たのでしょう?さすがの坊ちゃんも、あの娘が人魚だとわかっていながら手元に置いておくことはできなかった。

 いや、何もご自分を責めることはありませんよ。何しろあなたは被害者だ。だが、これでようやく、坊ちゃんはあの忌まわしい事件から解放されるわけです。

 なに、ご安心ください。あの娘はコレクションの一つとして、あっしが大切にお守りして差し上げますよ。もちろん会社のこともお任せください。坊ちゃんは十分過ぎるほど苦しみました。これからはもう、何も心配する必要はないんですよ」

 尚慶はそう言うと、いかにも親切そうな笑みを浮かべて見せた。麗二はそこでようやく顔を上げた。今の尚慶の言葉が、どうにも腑に落ちなかったのだ。

「僕が……苦しんだ?」麗二は掠れた声で尋ねた。

「ええ、そうでしょう」尚慶は頷いた。「ここのところ、坊ちゃんの身には立て続けに災難が降りかかりましたからね。会社の経営難から始まり、お父上の失踪、根拠のないマスコミの報道、そして極めつけはあの人魚の小娘です」

 麗二ははっとして目を見開いた。シオンが人魚であることを知ったあの晩、全てが終わってしまったように感じた時の記憶が、まざまざと蘇ってくる。

「考えてみれば、全てはあの人魚の親子から始まったようなものです」尚慶は続けた。「あのリンナという女がいなければ、坊ちゃんはお母上を失わずに済んだ。そしてシオンという娘がいなければ、坊ちゃんがその正体を知って苦しむこともなかった……。

 だが、それももう終わりです。あの娘は坊ちゃんの前から消え、坊ちゃんは元の平穏な暮らしに戻る」

 麗二は虚ろな視線で尚慶を見つめた。平穏な暮らし。シオンと出会う前の、穏やかで変わりのない日々。この男にシオンを売れば、それを取り戻すことができる――。

「僕……は……」

麗二は苦悶に顔を歪めて視線を落とした。視界の端で、尚慶が勝ち誇ったように意地の悪い笑みを浮かべるのが見えた。

 燭台のわずかな灯りしかない薄暗い部屋の中で、再び麗二が顔を上げた時、不意に入口にある緋色の花が目に飛び込んできた。かつてシオンに贈ったものと同じ、鮮やかな緋色のハイビスカス。

 その瞬間、あの時の光景が鮮明に蘇ってきた。ハイビスカスを差した髪に手を当て、はにかんだように笑うシオンの姿。その笑顔を見た瞬間、どれほど彼女が愛おしく思えたことだろう。

 麗二はようやく、なぜ自分がこの男を呼び出したのかを理解した。答えなど、最初から決まっていた。

「……尚慶さん、僕は、あなたに感謝しなければならないようだ」

 麗二はゆっくりと身体を起こすと、穏やかな微笑みを浮かべて言った。急に様子が変わった麗二を、尚慶は怪訝そうに見つめてきた。

「あなたに出会わなければ……僕はきっと、シオンの正体を知ることはなかっただろう。真実から目を背けて、彼女は人間だと信じて、目の前にある彼女の姿だけを愛そうとしただろう。

 だけど……僕は知ってしまった。シオンは、人魚だったんだ」

「だからずっとそう言っているでしょう」尚慶が苛立ったように肥えた身体を捩らせた。「あの娘が人魚である以上、あなたがあの娘をここに留めておく理由は……」

「そうじゃない」

 麗二が尚慶の言葉を遮った。尚慶が機先を制されたように口を噤む。

 麗二は視線を落とすと、自分に語りかけるように言った。

「シオンが人魚であると知って……ようやくわかった。僕は、彼女が何者であるかなどどうでもよかったんだ。

 僕はシオンを愛していた。だから、シオンが人魚であることを知ってもなお、彼女を手放すことはできなかった。僕が本当に怖れていたのは、シオンが人魚であることじゃない。シオンを、失うことだったんだ……」

 麗二はそこですっと目を伏せ、シオンと出会ってからの日々の記憶を追想し始めた。シオンと共に食事をし、浜辺を歩き、歌を聴いた日々――。それは麗二にとってかけがえのない日々であり、決して失ってはならないものだった。

 麗二は再び目を開けると、顔を上げ、尚慶をまっすぐに見据えて言った。

「あなたはシオンが僕の苦しみだと言いましたね。でもそれは違う。

 確かにシオンが人魚だと知って、僕は随分苦しみました。現実を受け入れられず、彼女にも辛く当たってしまったように思います。

 だけど、それでも僕は、シオンに出会えてよかったと思っているんです。シオンに出会って初めて、僕は誰かを愛することを知りました。たとえ彼女が人魚であっても、その気持ちに変わりはありません。

 僕はこの先、何があっても必ずシオンを守ってみせる。あなたには悪いが……僕はシオンを売るつもりはありません」

 麗二はきっぱりと言い切った。言葉にすると肩の荷が下りて、全身がすっと軽くなった気がした。

 そうだ、最初からわかっていた。自分はシオンを売るつもりなどなかった。わざわざ尚慶を呼び出したのは、このことを宣言するためだった。たとえどれだけ大金を積まれても、自分は決してシオンを売るつもりはないのだと。

 そしてそれは、麗二自身の誓いでもあった。自分はもう二度と、シオンに辛い思いをさせることはない。たとえ世間がシオンの存在を知り、自分達があらぬ流言と好奇の渦の中に放り込まれようと、絶対にそこからシオンを守り抜いて見せると。言わばそれは、苦しみの果てに麗二が辿り着いた、揺るぎない愛の表明だったのだ。

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