消えぬ翳り

 随分と長い時間をかけて着替えを終えたところで、麗二はようやくベッドから立ち上がった。今日もまた、これから会社に行くことになっている。急がなければならないとわかっているのに、何故か足が異様に重く、まるで歩くことを拒否しているようだった。

 麗二は大きくため息をつき、何気なく窓の方に視線をやったが、そこでひどくやつれた顔をした自分と目があった。涙で赤く腫れぼったくなった目に、骨の形がわかるほど痩せこけた頬。それは自分のものはずなのに、まるで知らない男の顔のように思えた。

 麗二はぼんやりとその男の顔を見つめていたが、やがて苦笑しながら窓から視線を外した。まったく、何てひどい有様なのだろう。これが本当に、数多の令嬢達から好意を寄せられていた男の顔なのだろうか?

 麗二は顔を上げると、目を細めて白い天井を見つめた。ただ海を見たり、読書をしたりして、何の心配もなく日々を過ごしていた頃の記憶がそこに映し出されているようだ。ずっとこの平穏な生活が続くと思っていたのに、どうして自分は今、こんな惨めな状態に陥ってしまったのだろう。会社の経営が破綻しかけているからか、父の行方が杳として知れないからか。それらも一因ではあるが、決定的なものではなかった。麗二をここまで打ちのめしているものの正体は、一つしか考えられなかった。

「シオン……」

 麗二は無意識のうちに呟いていた。彼女と初めて出会った日の記憶は、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。

 シオンを一目見た時から、鳩崎や百合が危惧していた『予感』は麗二の中にもあった。自分が母と同じ運命を辿ることになるのではないかという予感。たとえ最悪の事態は免れたとしても、彼女が自分の世界を一変させてしまう可能性は予測できたはずだった。

 だがそれでも、麗二は鳩崎の助言を受け入れ、シオンを手放す気にはなれなかった。その理由はわからないが、ただ一つ確かなのは、自分がシオンを失うのを怖れていることだった。

 シオンが自分の前からいなくなってしまえば、自分は間違いなく後悔する。そう考えたからこそ、麗二はシオンを手元に置いておくことに決めたのだ。たとえそのために、自分の生命を危険に晒すことになったとしても。

 その時、不意にジャケットのポケットから振動を感じ、麗二は中を探って携帯電話を取り出した。見覚えのない番号からの着信が画面に表示されている。麗二は怪訝そうに首を傾げながらも、通話のボタンを押して電話を耳に当てた。

「はい、高瀬川です」

「おや、お目覚めでしたか。連日の疲れで、てっきりまだお休みになっているかと思っておりましたが……」

 そのねっとりとした声を耳にした途端、追憶に満たされていた麗二の心に不快さが押し寄せてきた。

 もう二度と聞きたくないと思っていたその声の主は、自分をこんな悲惨な状況に追い込んだ張本人、尚慶のものだった。


「サラ……!?」

 シオンは驚きのあまり立ち上がり、目を丸くして突然の来訪者を見つめた。サラはにこりともせず、傲然と顎を上げてシオンを見据えている。

「アンタ、失敗したんだ?」

 サラが開口一番に言った。シオンは何のことを言われているかわからず、きょとんとしてサラの顔を見つめた。

「ま、運が悪かったってのもあるよね」サラが肩を竦めて言った。「今まさに麗二を刺そうって瞬間に、急に部屋の中が真っ暗になっちゃうんだもん。もうちょっとタイミングがズレてれば、アンタも今頃人魚に戻れてたのになぁ……」

 サラが何の話をしているのか、シオンはすぐにはわからなかった。だが次の瞬間、突然昨日の記憶がフラッシュバックしてきて、シオンははっとして頭を抱えた。さっきまではどうしても思い出せなかった、部屋を出てからの記憶が一気になだれ込んでくる。

 麗二の部屋に行くまでの長い廊下。月明かりに照らされた麗二の部屋。疲れ切った麗二の寝顔と、それを見下ろす自分の影。その手に握り締めたナイフを大きく振りかぶった瞬間、部屋は一瞬で闇に包まれて――。

 全てを思い出した瞬間、たちまち身体中に戦慄が走るのを感じ、シオンは思わず両手で自分を抱き締めた。自分はあと少しで、麗二を殺してしまうところだったのだ。だけど、どうしてそんな恐ろしいことをする気になったのか、その理由がどうしても思い出せなかった。

「何? もしかして忘れてたの?」

 シオンの様子がおかしいことに気づいたのか、サラが怪訝そうにシオンの顔を覗き込んできた。シオンは自分の身体を抱えたまま、恐怖に顔を引きつらせて頷いた。

「なーんだ。やっぱりそうなんだ」サラが拍子抜けした顔になった。「アタシはてっきり、アンタが自分の意思で麗二を刺しに行ったんだって思ってたけど、結局アンタもリンナと同じなんだね」

 シオンはまだ恐怖に身体を震わせていたが、そこで動きを止めてサラの方を見た。なぜ、ここで母の名前が出てくるのだ

「どういうこと? 私がお母さんと同じって……」

 シオンはおずおずと尋ねた。サラは苦虫を噛み潰したような顔になると、床に視線を落として言った。

「……リンナはさ、人間に対する盲目的な信頼があったんだよ。人間は美しくて優しくて、気高い生き物なんだって思い込んでた。だから人間に正体を知られても平気だと思ってた。自分が人魚だったとしても、今までと同じように接してくれるだろうってさ」

「何の話?」

 シオンは眉間に皺を寄せた。サラは顔を上げると、シオンの顔を真正面から見据えて言った。

「アンタと同じだよ。リンナも、美波子に人魚の姿を見られちゃったんだ」

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