第七章 届かぬ想い

蘇る悪夢

 七年前の悪夢が蘇った――。

 麗二が鳩崎からその言葉を聞いたのは、夜が明けてからのことだった。

 窓から差し込む朝の光を受けて麗二は目を覚ましたが、起きてすぐに、何かがいつもと違っている印象を受けた。

 違和感の正体はすぐにはわからなかったが、何気なく脇に視線をやったところで、思わずぎょっとして目を見開いた。新調したばかりの真新しいシーツ。その一角が、無残にも切り裂かれていたのだ。麗二はまじまじとその部分を見つめ、昨日、この部屋で起こった事態を悟った。

 真相を確かめるため、麗二はベルを鳴らして鳩崎を呼び出した。間もなく姿を見せた鳩崎は、珍しく顔に疲労を滲ませていた。

 麗二が切り裂かれたシーツを指し示し、昨日この部屋で何が起こったのかを鳩崎に尋ねた。鳩崎は眉間に皺を寄せて黙りこくっていたが、やがて深々と息をつき、冒頭の言葉を吐き出したのだった。

 鳩崎の話を要約すると次のようになった。昨日、この部屋で何やら物音がし、それを聞きつけた鳩崎や使用人達が駆けつけたところ、麗二のベッドにナイフを突き立てているシオンを発見した。幸い、ナイフの切っ先は麗二の身体を外れており、麗二の身体にはどこも外傷は見られなかった。シオンはその場で身柄を押さえられ、現在は自分の部屋で軟禁状態にされているらしい。

「……あの娘を屋敷に住まわせると坊ちゃまがお決めになられた時、いつかこのような事態が起きるのではないかと憂慮しておりました」

 鳩崎がため息混じりに呟いた。

「何しろ、状況があまりにも七年前と似ておりましたから……。ですが、あの娘の正体が明らかになった以上、これ以上ここに留めておくわけには参りません。警察に連絡し、即刻身柄を引き渡しましょう」

 鳩崎はそれだけ言うとお辞儀をし、足早に部屋を出て行こうとした。

「待ってくれ」

 不意に麗二が鳩崎を呼び止めた。鳩崎は足を止め、怪訝そうに麗二の方を振り返った。麗二は組み合わせた自分の両手に視線を落としている。その顔には、何か迷っているような表情が浮かんでいた。

「……もう少しだけ待ってくれ。まだ……彼女を手放すわけにはいかない」

「何故です!?」鳩崎が目を剥いて叫んだ。「あの娘はあなたの命を奪おうとしたのですよ!? 七年前、あのリンナという人魚がしたのと同じように……。あの娘をここに置いておけば、いつまたあなたの命が狙われるかわからないのですよ!?」

 そう言った鳩崎はひどく切迫していて、普段の冷静さは欠片もなかった。麗二は苦しげに顔を歪めたが、それでも先の言葉を撤回しようとはしなかった。

 鳩崎は辛抱強く麗二の返事を待った。だが、主人の意思が変わらないのを見て取ると、落胆した様子で深々とため息をついた。

「坊ちゃまがあの娘をどう思っておられるか……私も重々承知しているつもりでございます」

 鳩崎が視線を落として言った。

「ですが、どうかもう一度よくお考えください。もし坊ちゃまがいなくなってしまったら、この屋敷はどうなるのです? 私達はどうすればよいのです? 坊ちゃまの命は、坊ちゃまお一人のものではございません。どうか、そのことをお忘れになりませぬよう……」

 鳩崎は懇願するような視線を麗二に向けたが、麗二は目を合わせようとしなかった。鳩崎は諦めたように息をつくと、麗二に向かって深々と頭を下げ、静かに部屋を出て行った。

 一人きりになった後も、麗二は微動だにしなかった。組み合わせた両手に視線を落としたまま、じっと黙ってこくっている。

 だが、不意にそこに雫が落ちた。瞬きを繰り返すたびに、何度も何度も、冷たい粒が麗二の手の甲に零れ落ちてくる。そうすると今度は嗚咽がこみ上げてきて、麗二はぐっと両手を握り合わせると、声を絞り出すようにして泣き始めた。


 太陽が空高く昇り、暖かい日差しが部屋に差し込む中、シオンは自分の部屋でぼんやりと時間を過ごしていた。

 部屋の脇には、今朝運ばれてきた朝食が手つかずのまま置かれている。今朝から何も口にしていないが、不思議と食欲はわかなかった。海の中では決まった時間に食事をとる習慣はなかったから、平気でいられるのかもしれない。シオンはそんなことを考えながら、もう何度目になるかわからないが、昨日の記憶を思い起こしていた。

 昨日の夜のことは、まるで夢の中のでき事のようだった。何かに導かれるように部屋を出たことまでは覚えているのだが、そこから先がどうしても思い出せないのだ。気がついたら麗二の部屋にいて、そこで鳩崎に両手を掴まれた。扉の外では、使用人達が恐ろしいものを見るような目で自分の方を見つめていた。

 シオンはそのまま自室に連れて行かれ、そこから一歩も出ないよう鳩崎に命じられた。その時の鳩崎はとても恐い顔をしていて、どうして鳩崎がそんな顔を自分に向けているのか、シオンにはまるでわからなかった。

 一人部屋に取り残される格好になったシオンは、そのままぼんやりと窓の外を見て過ごした。夜はまだ明けていなかったが、眠る気にもなれなかったのだ。

 そのうちに朝日が海から顔を出し、空が明るくなり始めたのを見て、シオンはそろそろ鳩崎が呼びに来てくれるだろうかと思った。だが、どれだけ待っても鳩崎は姿を見せず、代わりに一人の〈メイド〉が朝食を運んできただけだった。

 シオンは鳩崎が来ないことを不思議に思い、メイドに理由を尋ねようとしたが、メイドは朝食を置くや否や逃げるように部屋から出て行ってしまった。鳩崎と言い、あのメイドと言い、昨日からみんな様子がおかしい。彼らの態度はよそよそしく、極力自分と関わるのを避けているように思えた。昨日まではとても親切にしてくれていたのに、今や彼らがシオンを見つめる目には恐怖が浮かんでいた。まるで自分が怪物にでもなってしまったみたいだ。

「麗二……」

 自分でも意識しないうちに、シオンはその名前を呟いていた。

 最後に麗二と会ったのが、随分と昔のことに感じられた。こうして部屋に閉じ込められている限り、自分はもう、麗二の姿を見ることさえできないのだ。そのことを考えると、途端に胸を締めつけられるような寂しさがこみ上げてきた。

 シオンは麗二に会いたかった。たとえその態度がよそよそしく、自分に向けられる眼差しが冷たいものであったとしても、それでも麗二の傍にいたかった。

 その時、不意に後ろから何かが破裂するような音がして、シオンは驚いて振り返った。鳩崎が来たのかと思ったがそうではなかった。シオンの目に飛び込んできたのは、細い腰に両手を当て、仁王立ちして自分を睨みつけているサラの姿だった。

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