決意を胸に

 その夜、麗二は随分と遅い時間になってから帰ってきた。食事を勧める鳩崎の誘いを断り、すぐに自分の部屋に戻ってしまった。シオンは扉の影からこっそりと麗二の様子を窺っていたが、肩を落として歩くその背中は彼のものではないようで、シオンはひどく心配になった。

 シオンは麗二に会いたかった。どうしても、麗二と話をしたかった。

 シオンは確かめたかったのだ。麗二はどこまで気づいていたのか、自分を助けたあの時、リンナのことを思い出しはしなかったのかと。

 だけどそれは同時に、麗二に真実を知らせることでもあった。自分が人魚であり、リンナの娘であることを。麗二はきっと苦しむだろう。シオンは麗二を苦しめたくはなかった。だけど、母の過去を知りながらも、何も知らなかった時のように過ごすことは、もうできなかった。


 屋敷の中は今朝と同じように静まり返っていた。〈使用人〉達も今頃はもう寝入っているのだろう。辺りに音はなく、シオンの〈スカート〉の衣擦れの音が聞こえるばかりだった。

 シオンは重い足を引き摺るようにしながら、のろのろと麗二の部屋へと続く螺旋状の〈階段〉を登っていた。麗二に会わなければと思う一方で、シオンは麗二に会うのが怖くもあった。あの哀しみを湛えた灰色の瞳が、今度はどんな風に自分を見つめるのかと考えると、このまま自分の部屋に引き返してしまいたくなった。だけどもう、逃げ出すことはできなかった。

 そうしてのろのろと歩き続けているうちに、とうとうシオンは麗二の部屋の前に着いてしまった。扉の前で立ち止まり、じっと自分の足元を見つめる。

(麗二はとても疲れていたから、誰かと話をするような気分じゃないかもしれない。それに今日は遅いから、もう寝てるかもしれない……)

 シオンはそんなことを思いながら顔を上げると、遠慮がちにゆっくりと扉を二回叩いた。手を下ろしてしばらく待ったが、返事も、人の動く気配もなかった。麗二が出て来ないとわかり、シオンは安堵して息をついた。

(麗二はきっと疲れてるんだわ。話をするのは明日、麗二が元気になってからにしよう)

 シオンは自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、そっと身を翻して扉の前から立ち去ろうとした。

 その時、不意に後ろから扉の開く音が聞こえた。シオンがはっとして振り返ると、そこには麗二が立っていた。

 だが、その姿はいつもとはまるで違っていた。普段はきちんと整えられた髪は無造作に乱れ、いつもは皺一つない真っ白なシャツも、今はくしゃくしゃになっていた。シオンを見つめる顔にははっきりと疲労の色が現れており、物憂げな灰色の瞳の下にはうっすらと黒いものができている。

 シオンは目を丸くして麗二を見つめた。それはまるで、麗二の姿かたちをした別の人間のようであった。

「麗二……? どうしたの……?」

 シオンは思わず声をかけた。麗二は視線を落とすと、体内に溜まった疲労を丸ごと吐き出すかのように大きく息をついた。

「……会社の方で色々であってね。経営状態が思わしくないんだ。何とか立て直そうとはしているが……このままだと、まずいことになるかもしれない」

「まずい?」

 シオンには麗二の言葉の意味がわからなかった。だけど、何かとても悪い事態が起こっていることは麗二の様子を見れば明らかだった。

 麗二はじっと考え込むように視線を落としていたが、やがて顔を上げてシオンの方を見た。

「まぁ、それは君には関係のないことだ。それよりもシオン、君の方こそどうかしたのか? 何だか顔色が良くないようだが……」

 シオンは麗二の顔を見返した。気遣うようにシオンを見つめる麗二の顔は、自分がよく知っている麗二のもので、今朝のようなよそよそしさはまるでなかった。それを見てシオンはかえって居たたまれなくなった。

 麗二は優しい。外から見てもわかるほど疲れているのに、そのことに構いもしないで、自分のことを心配してくれている。今朝の一件など最初からなかったかのように、変わらず自分に接してくれているのだ。

 シオンは泣き出したくなった。このまま何も言わずに引き返そうかと思った。だけど、そんな心とは裏腹に、言葉がシオンの口をついて出た。

「……あなたに話さなければならないことがあるの。私の母と、あなたのお母様のことで……」

 その言葉を聞いた途端、穏やかに見せていた麗二の顔が強張ったのがわかった。

 それを見てシオンは確信した。あぁ、やはり麗二は気づいていたのだ。自分を助けたあの時からずっと。ただ、それを口にしていなかっただけなのだ。

 麗二はじっとシオンの顔を見つめた。その灰色の瞳からは、今は何の感情も読み取れなかった。

 やがて麗二はシオンから視線を外すと、そっと踵を返して部屋に戻っていった。シオンは当惑した顔で麗二が消えた部屋の先を見つめたが、扉が閉じられないところを見ると、自分に中に入るよう促しているのだと思った。

 シオンは大きく息をつくと、きゅっと口を引き結び、部屋の中に足を踏み入れた。

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