知らぬままなら

 麗二の部屋には、これまでも何度も来たことがあった。扉の向かいに見える大きな窓からはいつも明るい日差しが差し込み、その手前にある揺り椅子で麗二はよく本を読んでいた。この部屋に入るたび、日の光を受けて輝く彼の琥珀色の髪や、ゆったりとしたその佇まいに何度も見惚れたものだ。

 しかし今、昼間と同じように揺り椅子に腰掛けた彼にはそんな優雅さはなく、ただ沈痛な面持ちをしてぎゅっと両手を組み合わせている。

 シオンは麗二の姿を見つめた後、ゆっくりと彼の方に近づいていった。シオンが目の前に立っても、麗二は顔を上げようとしなかった。

「……七年前のこと、百合さんから聞いたわ」

 シオンが麗二を見下ろしたまま言った。

「あなたがどうして母の歌を知っていたのか、やっとわかった。七年前、あなたも母の歌を聞いていたのね。美波子さんと同じように……」

 麗二は答えなかった。シオンはぎゅっと両手を握ると、絞り出すように言った。

「私……ずっと母を探していた。だから、あなたが母のことを知っていると聞いて、つい母のことを尋ねてしまった。

 ……だけど知らなかった。まさか母が、あなたのお母さんを……」

 シオンがそこまで言った時だった。突然麗二が立ち上がったかと思うと、いきなりシオンを抱き寄せた。シオンは何が起こったのかわからず、目を白黒させて麗二の方を見ようとした。

「麗二……?」

「……違う」

「え?」

 麗二は痛いほどシオンを抱き締めた。シオンはどうしてよいかわからず、当惑して麗二の方に視線を寄せた。麗二の荒い息遣いが耳元で聞こえる。

 そうしてしばらく時間が経った後、ようやく麗二はシオンを解放した。シオンは麗二から身を引き、怯えた顔で彼を見つめた。

 麗二はしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げると、まっすぐにシオンを見つめて言った。

「それは……君のお母さんのことじゃない。百合さんが話したのは、全然違う女のことだ」

「え……?」

 シオンは困惑して麗二の顔を見返した。麗二はシオンから視線を外すと、そっと目を伏せて言った。

「……確かに君はあの女によく似ている。そして今朝君が歌っていたのも、あの女が歌っていたのと同じ歌だ。

 それでも……あの女は、君とはまるで関係がないんだ」

「麗二……どうして? どうしてそんなことを言うの?」

 シオンは泣き出したくなった。浜辺で倒れている自分を見つけたあの時から、麗二はとっくに自分の正体に気づいていたはずだ。それなのに、どうしてそれを否定しようとするのだろう。

 麗二は顔を上げ、もう一度シオンを見つめた。そしてふっと口元を緩めると、意外なほど優しい声で言った。

「シオン、君は何も知らなくていいんだ。そして僕も……。これ以上、お互いのことを知る必要なんてないんだ」

「……どういうこと?」

 麗二は一歩シオンの方に歩み寄った。シオンは思わず身を引こうとしたが、それより早く麗二がそっとシオンを抱き締めた。先ほどとはまるで違う、優しい抱擁。

「……シオン、僕は、君を愛している」

 麗二が耳元で囁いた。シオンが思わず息を呑む。麗二はそっとシオンの髪を撫でると、静かに、語りかけるように言った。

「君が誰であろうと……僕にはどうだっていい。僕は君を愛している。だから僕は、君にここにいてほしいんだ。そのためには、僕は何も知る必要はない。何も知らなければ……このままでいられる。これまで通り、二人で海を見て、話をして、笑い合っていられる……。

 だからお願いだ……シオン。もうこれ以上……僕に、君のことをわからせないでくれ……」

 最後にそう言った時、麗二が不意にしゃくり上げたのが聞こえた。麗二は泣いていた。泣きながら、哀願するように、ただ一心にシオンの身体を抱き締めている。そんな麗二の体温を感じながら、シオンは真実を話す機会が永久に失われたことを知った。

 麗二は自分を愛してくれた。だけどそれは、本当の自分に向けられた愛ではなかった。もし真実を知れば、麗二は二度と自分のことを愛してはくれないだろう。

 麗二の愛を繋ぎとめるためには、シオンもまた、何も知らない振りをして生きていくしかなかった。麗二と同じように、シオンもまた彼を愛していた。だがそれは、一つの悲しい運命を示していた。

 一筋の涙がシオンの頬を伝う。それはシオンが、もう二度と元の自分には戻れないことを悟った瞬間だった。単に人魚に戻れないだけでなく、リンナの娘として生きていくこともできない。海を忘れ、母を忘れ、記憶を失った人間のシオンとして、ただ麗二に愛されるために生きていく。

 それが、シオンが選んだ運命の結末だった。

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