母を求めて

「……私に人間のことを教えてくれたのは、母でした」

 シオンがぽつりと言った。魔女が鍋をかき混ぜる手を止める。シオンは魔女の背中に向かって続けた。

「母はいつも、私に人間の話をしてくれました。人間はとても優しくて、暖かくて、素敵な生き物だって、母はいつも言っていました。母はいつか人間に会うのが夢だと言っていて、その時は私も一緒に人間に会いに行くんだって、そう……思っていました」

 シオンはそこで言葉を切った。漆黒の長い髪の間から、影のある表情が覗く。

「ある時、私が目を覚ますと、母はどこかへ行こうとしていました。私がどこに行くのって尋ねると、母は人間に会いに行くんだって言いました。

 私、びっくりして……。急いで後を追おうとしたんですけど、母は私に言いました。『お母さんはすぐに帰ってくるから、あなたはここで待ってなさい』……って。

 私は必死に母を追いかけようとしたんですけど、まだ子どもだったから上手く泳げなくて……。結局見失ってしまいました」

「……それで、どうなったんだい」

 魔女が背を向けたまま尋ねてきた。シオンは大きくため息をつくと、ゆるゆるとかぶりを振った。

「最初は私も、母はすぐに帰ってくると思っていました。きっと、どうしても人間に会いたくなって、姿を見に行ったんだろうって……。

 でも、私がどれだけ待っても、母が帰ってくることはありませんでした。母は人間のところで暮らすようになって、私のことなんか忘れちゃったのかなって、そんなことも考えました……」

 シオンは自嘲気味に笑った。魔女は何も言わなかった。

「……あれからもう、七年が経ちました。私も大人になって、ようやく母みたいに泳げるようになりました。それからずっと考えていたんです。母はきっと海の上のどこかにいる。だったら私も海の上に行って、母を探したいって。

 私が人間になりたいのは……人間に会いたいという気持ち以上に、母に会いたいからなんです」

 シオンはそう言って話を終えた。魔女が振り返る様子はなかったが、それでも手を止めているところを見ると、シオンの話を聞いてくれていたのは間違いなさそうだった。

 魔女はその後もしばらく押し黙っていたが、不意にシオンの方に一瞥をくれた。

「……本当に、それで後悔はないんだね」

魔女がゆっくりと尋ねてきた。突き刺すような視線を向けられ、シオンは一瞬気圧されそうになったが、すぐに顎を引いて頷いた。

 魔女はそのままシオンを見つめていたが、やがて前方に向き直ると、深々とため息をついた。

「……やれやれ、あの親にしてこの娘あり、か」

 魔女はそう呟いた後、ローブの中からおもむろに小瓶を取り出した。鍋の中で煮え立つ緑色の液体を小瓶で掬うと、次いで次に傍らに置いてあった皮袋の中に無造作に手を入れる。そこから粉を一つまみ取り出し、ぱらぱらと小瓶の中に入れる。

 次の瞬間、小瓶の中の液体が勢いよく泡立ち、みるみるうちに赤色の液体に変わった。シオンは目を丸くしてその光景を見つめたが、魔女は驚いた様子もなく淡々と小瓶に蓋をすると、それをずいとシオンの眼前に突きつけた。

「これがあんたの望みのものだ。海の上に出てこれを飲めば、あんたのその鰭はたちまち人間の足になる。そのまま潮に流されていけばやがて浜辺に辿り着き、そこで望み通り、人間に会えるだろうよ。」

「あ……ありがとうございます! 」

 シオンはぱっと顔を輝かせると、両手で大事そうに小瓶を握り締めた。これでようやく人間になれるのだと思うと、嬉しさで胸がはちきれそうだった。

「話はそう簡単じゃないよ。その薬には一つ、注意すべき点がある」

 魔女が釘を刺した。シオンは顔から笑みを消すと、慌てて魔女の顔を見返した。

「その薬を飲めば、あんたは確かに人間の姿になることができる。だがね、満月の夜、潮が最も満ちる時だけは、あたしの魔法は海の上までは届かなくなってしまう。その時には一時的に魔法が解け、あんたは元の姿に戻ってしまう」

「え、それじゃあ、もし人間と一緒にいる時に、魔法が解けてしまったら……?」

「……考えたくもないね」

 魔女はそれだけ言うとふいと視線を外し、またも薬をかき混ぜ始めた。シオンは不安を拭えぬまま手の中の小瓶に視線を落とした。

(……でも、お母さんもこの薬を飲んで人間になったのよね。それで今まで帰って来ないってことは、きっと上手くやってるってことよね……)

 シオンはそう自分を納得させると、今一度魔女にお礼を言い、そのまま浮上していった。彼女の動きに合わせてぶくぶくと泡が立ったがすぐに立ち消え、辺りは元の静寂に包まれた。

 魔女は顔を上げ、シオンの消えた先をじっと見つめたが、やがて大きくため息をつくと、のろのろとした手つきで薬をかき混ぜた。


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