地上の世界へ


 海中まで戻ってきたシオンは、そのまま光が差し込む海の上に向かって泳いでいった。途中で魚達が現れて彼女の後を追ってくる。シオンが魔女に会いに行ったのを知っていて、彼女が地上に行くのを引き留めようとしているのだ。

 シオンは泳ぎを止めて振り返ると、申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめんなさい。あなた達と別れるのは私も辛いけど、仕方がないの。こうでもしなければ、私はずっとお母さんに会えないもの。だからお願い、このまま行かせて」

 シオンはそう魚達を嗜めようとしたが、魚達は哀願するように背鰭をぱたぱたさせた。

『嫌だよシオン、君の歌が聴けなくなったら、僕達は何を楽しみに生きていけばいいんだい?』

 そんな魚達の言葉がシオンの耳には聞こえてくるようだった。シオンはだんだん居たたまれなくなり、魚達を正視できずに目を背けた。

「……ごめんね、さようなら」

 シオンはそう言って魚達に背を向けると、振り切るように再び地上へと向かった。魚達はなおもシオンの後を追おうとしたが、泳ぎを速めた彼女には到底追いつけず、間もなくシオンの姿は頭上から差し込む光の中に消えた。


 海面から顔を出したシオンの目に最初に飛び込んできたのは、眩い光を放つ金色の球体と、その周りをゆったりと流れる白のヴェール、そして背後で澄み渡る青の世界だった。海よりも淡い色をしたそれは、海から遠ざかるにつれて少しずつ鮮やかに変わっていって、まるで頭上にもう一つの海が広がっているかのようだった。紺碧の海とは違う、優しい色合いを持ったその光景にシオンは目を奪われ、思わず感嘆の息を漏らした。

(綺麗……。海の上にも、こんなに美しい世界があったなんて……)

 こんな見事な景色の下で暮らす人間というのは、どれほど美しい生き物なのだろう。シオンは期待に胸を高鳴らせながら、魔女からもらった小瓶を取り出した。頭上から差し込む光を受け、透明な小瓶がきらりと反射する。シオンはその小瓶をじっと見下ろした。

(これを飲めば、人間になれる……。人間に、会うことができる……)

 ためらいはなかった。シオンは小瓶の蓋を開けると、一気にそれを飲み干した。

 だが次の瞬間、突然とてつもない吐き気に襲われ、シオンは咄嗟に手で口元を覆った。次いで腹の辺りに不快感が漂ったかと思うと、今度は頭が内側から破裂しそうにになるほど痛み始める。

(……っ!)

 まるで身体中の細胞が自分を締め上げているような、そんな言葉にならない痛みがシオンの全身を貫いた。シオンは顔を歪めて呻吟を漏らすと、その場で身体を丸めて悶え始めた。

(痛い……。苦しい……。何なの、これ……!)

 痛い、苦しい、痛い、苦しい。同じ言葉が何度もシオンの脳内を駆け巡り、咄嗟に助けを求めようと声を上げようとした。

 その時だった。シオンの心臓が突然大きく脈打ったかと思うと、身体が引き裂かれるほどの激しい痛みが身体を貫いた。今までとは比べ物にならないその痛みを前に、身体が弦のようにぴんと張り、シオンは堪らずに悲鳴を上げた。

(止めて……もう……これ以上は……。)

 それは永遠に続くかと思われる痛みだった。鋭利な刃物で身体が切り裂かれるほどの激しい痛み。シオンは何度も喘ぎながら必死にその痛みに耐えていたが、次第に意識が朦朧としていくのを感じていた。虚ろな目を何度か瞬かせた後、ついにはがっくりと首を落とし、そのまま意識を失った。

 周囲の水面は何事もなかったかのように揺らめき、シオンの身体を運んでいく。波の合間から覗くその身体は、彼女の苦痛が無益ではなかったことを示していた。

 下半身を覆う鱗や、その先端から生えた鰭は消え、代わりに姿を現したのは、しなやかな二本の足だった。

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