21 ローマ帝国(1)

ミサ〉 さてと、ローマ帝国の話をしよう。さすがに避けては通れんだろうし。


我聞〉 昨夜聞いた話の流れからして、まずは〈宗教的権力〉〈軍事的権力〉〈政治的権力〉それぞれが、ローマ帝国ではどのように作用していたか、といった観点から分析してくことになるんでしょ? たぶん。


ミサ〉 鋭いね。まぁそうなんだが、ただ、ローマ帝国の立ち上がりをみるとだ、どちらかというと、首長制社会のところで言及したような、むしろ「国家に抗する社会」的な要素のほうが強いんだ。つまり、古代王権のように〈一者〉へ全権が集中してしまわないよう、それを避けていく仕組みを、回避していく仕掛けを用意している、ってわけ。


我聞〉 え、ちょっと待ってください。ローマ帝国は巨大な版図を誇る帝国ではあるけれど、基本、国家の延長線上にあるものでしょう。なのに、なんで「国家に抗する社会」になっちゃうんです?


ミサ〉 言い方が悪かったな。あくまで全権を一点に集約させていかない仕組みを持っていた、ということ。

 順番に説明していこう。

 まず、これは伝説レベルのお話なんだが、ローマの建国は紀元前753年、建国の父はオオカミに育てられた、とかいうンなわけねぇだろ的な双子の兄弟のひとり、ロムルス。


我聞〉 あ、「ローマ」の名前は、そのロムルスからきてるんですね?


ミサ〉 そのとおり。

 で、このロムルス王からな、王政がスタートしていくんだが、7代目の王(および、その息子)がろくでもないヤツったこともあり、前509年に王家一族が追放されてしまう。でもって、いわゆる共和政がスタートするんだ。

 ちなみに、同じ頃、お近くのアテネでも似たようなことが生じていた。クレイステネスの改革、というやつ。「暴君の支配はもう懲り懲りさ!」、前508年、アテネは民主政へ移行している。


我聞〉 へぇー、お互いに似たようなマインド、気質があった、あるいは時代の空気、ですかねぇ、どこか重なるところがあったのかもしれませんね?


ミサ〉 たぶん「オレたち自由人」とかいうマインドが似てるんだろうが、ただ、直接民主政を選んだアテネとは違い、ローマは共和政の道を進んでいる。小さくはない違いがあるよね(1)

 一応、共和政の仕組みを概観しておこう。

 まず、有力者の集まり、「元老院」があった。その人数は後に増えてくが、この頃は約300人で、任期は終身。

 つぎに「民会」がある。民会では重要な国事、たとえば戦争の決定などをした。民会、と聞くと、なにやら平等な話し合いをイメージするかもしれんが、昔の話だ、そんなことはなく、そもそも民会を招集する権限、議題の提案権はトップダウン型で、提案内容も事前に元老院で決議されてるとか、貴族層の影響圏にあるものだった。また、公職を民会の選挙で選んではいたが、貴族層と平民層ではあらかじめ投票割当に差があり、露骨に有力者優位な仕組みが備わっていた。

 最後に、その民会で選ばれる「財務官」「造営官」「法務官」「執政官」といった各種「政務官」があった。政務官の任期は1年で、同じ人が連続して就任することは禁じられていた。また、定員も複数名いる同僚制となっており、特定の人物に権限が集中しないようになっていた。さらには、一つの公職を得て、次の公職を得るまでの間に原則インターバルを置かねばならなかった。

 「政務官」の頂点と言えるのは「執政官(コンスル)」(※一応その上に「監察官」があったが、命令権がないし軍事的指揮権もない)だが、やはり一人に権限が集中しないよう、2名選出されている。

 つまりローマにおける〈政治的権力〉は、元老院、民会、政務官ないしコンスルにだ、分有されていたと言える。

 古代王権とは異なり、〈一者〉の手中に収まらないよう工夫されていたんだ。


我聞〉 でも、全体としては、なんだかんだで貴族が強いんでしょ?


ミサ〉 それはもちろん。さっきも言ったとおり、民会は貴族層寄りだし、政務官も所詮は任期1年だからさ、自ずと終身である元老院に実質的発言権が集まってくる。共和政期はな。

 とはいえ一方では、平民層も黙ってはおらず、権限拡張を求める身分闘争が続けられていく。その成果は、前494年、貴族の横暴(元老院や民会での決定)を無効にする拒否権をもつ護民官(定員10名、任期1年、その身体は不可侵として護られた)の設置、前450年、ローマ法の基礎となる十二表法が成立し、恣意で支配されない法治国家へスライド、さらには、貴族と平民の通婚が認められたり(前445年)、リキニウス=セクスティウス法(前367年)により、執政官の片方を平民から出すことになる、などといった具合に顕現していく。


我聞〉 なるほど、平民層も頑張ってたわけだ。


ミサ〉 ちなみに、古代ギリシアの哲学者・アリストテレス(前384-322)に『政治学』という有名な著作があるが、その中で、広く国制を、①一者が全権を握る「王制」(暴君化した場合は僭主制という)、②少数者が支配する「貴族制=優秀者支配制」(既得権をむさぼり喰うなど体たらく化したときは寡頭制)、③広く市民が権力の源泉となる「共和制」(衆愚化した場合は民主制)、3つに分類している(2)

 これをローマに当てはめるとさ、執政官には「王制」的要素があり、元老院には「貴族制」的な要素がある。そして民会には「共和制(ないし民主制)」的要素がある、ってな感じでね、ある意味、見事なまでに当時の国制が連結されてるんだ。

 あるいは、そのようなハイブリッドな混合政体だったからこそ、ローマの政治は安定した、とも指摘されているぞ。


我聞〉 なるほど。とりあえず、〈政治的権力〉がどのように作用していたか、については概ね理解しましたよ。

 要するに、元老院、民会、執政官と、それぞれバランスよく分有されており、つまるところ〈一者〉が、独裁者が誕生しないようストッパーがかけられていた、ってわけですね。そのへんが古代王権とは違う。


ミサ〉 そうだよ。


我聞〉 じゃ次に、〈軍事的権力〉はどうなるんですか?


ミサ〉 おぅ、素晴らしい先読みだな。

 まず、さっき言いかけたことだが、戦争とか国家が重大な危機に陥るとだ、2人いた執政官(コンスル)のうち片方が任期半年の「独裁官(ディクタトル)」になるんだな。

 これにより、非常時の指揮系統が一本化されて、全権委任となる。ただしもちろん、問題解決に至ればさ、独裁官を降りることになるんだ。なんつーか、期間限定の独裁者だなぁ。


我聞〉 あれ、それって、首長制社会で出てきた、戦争という例外状態でね、一時的に共同体のリーダーポジションに入ってくる戦士代表と同じパターンじゃないですか?

 例外状態が解消されると、身を引き、首長にリーダーポジションを返していた戦士代表と似てる。


ミサ〉 そうそう、そうなんだよ。だから古代王権のロジックより、どちらかというと首長制社会のロジックに親和的なところがあるのさ。

 何度も言うが、要するにさ、独裁王(の誕生)が嫌だったのだよ。


我聞〉 あ、でも、ローマの時代、争いばかりで終結はなかなか無いんじゃないんですか? 争いが続くと、例外状態が常態化してきません? となると、独裁官がいることが常態化していく危険性がでてきません?


ミサ〉 だんだん我の思考を先読みするようになってきたなぁ。まぁそのとおり、と一応は言っておく。

 争いが続いていた、というより、むしろ争いをバネにして強大な権限を握り続ける輩が出てきた、といったところだが、それはさておき、せっかくだからさ、ローマといえばカエサル、つーことで、カエサルを抜きにしてローマ史を語るのもアレなんで、このへんでカエサルを取り上げておこうか。


我聞〉 「賽は投げられた!」の名言で有名な、あのカエサルですね。


ミサ〉 うん、名セリフ多いし、好きな人多いよなぁ。

 ユリウス・カエサル(前100-44)は、前59年に執政官まで登り詰める。執政官の退任後はローマを離れ属州ガリア総督として赴任、ガリア全土(今でいうフランス及びその周辺)を制覇していく。

 でだ、そんな躍進していくカエサルの姿に、門閥派と呼ばれる元老院を重んじた保守的な共和政支持層がだ、ビビる。いずれカエサルが独裁者と化すんじゃなかろうか、と危惧し、カエサル排斥の気運が高まっていく。

 そんな中、前49年、カエサルは軍を率いたままルビコン川を渡ってイタリアに帰ってくる。ルビコン川は属州ガリアとイタリアの境界、つまり総督としての命令権が及ぶ境界であり、武装解除しないで渡ることはローマへの反乱も同じであり、もはや後戻りはできない。このときの名言が「賽は投げられた!」だな。

 最終的に、すったもんだでカエサルは門閥派とタイアップして政敵にまわったポンペイユスを破り、並ぶ者なき権力を手にする。繰り返し執政官に就任し、独裁官にも就任し、さらには事実上、高位公職の指名権を握ってしまう。このとき、カエサルは「ほとんど王と呼んでよい位置にいた」(3)

 そして前44年、なんと終身独裁官に就任するのだ。これが暗殺の引き金をひく。


我聞〉 あれ、独裁官って期間限定のものですよね?


ミサ〉 そうだよ。なんだかんだで内乱という例外状態を踏み台にしつつ、例外的な権力を常態化してしまうんだなぁ。遠征や内戦に勝利し続けながら、その権力を一過性のものではなく、持続的なものへ変えてしまった。

 ここ、ポイントだよね。

 強大な〈軍事的権力〉がさ、期間限定のものではなく、無期限に、〈一者〉の手中に収まっちまったわけだ。


我聞〉 となると、あとは〈宗教的権力〉と、〈政治的権力〉を握れば・・・・・・


ミサ〉 王権が誕生するな。

 まず、〈政治的権力〉の掌握については、事実上、元老院とのバトルになる。

 カエサルは元老院の定員を増やしつつ、シンパを送り込んでいたから、〈政治的権力〉の掌握に無関心だったとは思えない。

 ただし、カエサルが生きていたとしてもだ、元老院の弱体化は狙ったろうが、さすがに潰すことまでは考えてなかったろうよ。


我聞〉 〈宗教的権力〉の方はどうなんですか?


ミサ〉 それについては、古代ローマ史が専門の本村凌二さんに興味深い指摘がある。

 まず、若きカエサルが最初に就いた公職がユピテル神殿の祭司だった(※選出されてはいたが、就任までには至っていない、とする見解もアリ)。それは妻の家柄がよかったおかげでもある。その後、政争に巻き込まれ、妻との離縁を迫られるが、これを拒否する。本村さん曰く、妻にこだわった、というよりはむしろ、祭司職を手放したくなかったのでは? ということだ。

 そんなエピソードがありつつ、前73年、カエサルは神祇官に就任する。さらには前63年、37歳という異例の若さで大神祇官のポストに「母上、今日、あなたの息子は大神祇官職に就くか、亡命者になるか、どちらかです」とかいう悲痛な覚悟で選挙に挑み、見事にゲット。しかも、最終的には終身大神祇官になっている。

 つまり、カエサルは宗教的な官職に固執していたわけ。ちなみにカエサル以降、その路線は踏襲されていき、ローマ皇帝は大神祇官にも就く、という伝統が生まれた。

 これは余談だが、大神祇官の名称ポンティフェクス・マクシムスは、ローマ法王の正式名称と同じだから、本村さんは「カエサルはローマ法王だった」というのは半分冗談にしても、半分は事実、と言う。

 さて、カエサルが神祇官にこだわった理由について、本村さんは次のように語る。


【 神を敬うことに秀でていたローマ人にとって、神祇官は特別な権威を持った存在でした。

 カエサルは、敬虔なローマ人の頂点に立つ人間は、やはり宗教的な権威を携えた神々に近い人間、あるいは神々に対する敬虔な意を伝えることができる人間でなければならない、という強い思いを持っていたのだと思います。

 実際カエサルは、伯母のユリアが亡くなったとき、その葬儀の席で、伯母ユリアは神々の子孫であると語り、自らの出自であるユリウス家が女神ウェヌス(愛と美の女神ヴィーナス)に繋がる聖なる一族であることをほのめかしています。(引用文献:『教養としての「ローマ史」の読み方』PHP研究所、2018:P148 】


我聞〉 となると、カエサルは〈宗教的権力〉についても強い関心をもっていた、ってわけですね?


ミサ〉 歴史にifはないけれど、もしカエサルが暗殺されなかったら・・・・・・と想像してみたくなる気持ちもわからない?


我聞〉 織田信長が本能寺の変で死ななかったら・・・・・・みたいな歴史のifですね。


ミサ〉 まず、終身独裁官として〈軍事的権力〉を、終身大神祇官として〈宗教的権力〉を一身にまとっているわけだよ。

 後はさ、残る元老院から実質的なレベルでね、〈政治的権力〉をじわりじわりと簒奪していけば・・・・・・


我聞〉 王の誕生、ですね・・・・・・


ミサ〉 そうなんだな。ところが、暗殺というオチがついた。

 でね、そんな結末をみていたカエサルの後継者であり、養子だったオクタウィアヌス(前63-後14)はさ、政争(内戦)を勝ち抜いて頂点に立つんだが、元老院との対立は避けるようにし、共和政を圧迫するような姿勢を見せなかったんだ。


我聞〉 賢いですね。カエサルの二の舞は御免、って感じですね。


ミサ〉 そんなオクタウィアヌスに、元老院は「尊厳なる者」を意味する「アウグストゥス」という尊称を贈り、国政は元老院とアウグストゥスで分担することになった。ここに、ローマ皇帝が誕生し、いわゆる帝政がスタートするわけだ。

 ちなみにアウグストゥスは政治的手腕に長けており、表向き共和政を立てつつ、実質的には独裁的権力を保つ、という巧みな綱渡りをしていく。


我聞〉 なるほどねぇ。

 以上をまとめますと、古代ローマは、むしろ首長制社会のように、独裁を嫌い、〈一者〉に全権が集中していくことを避けながら展開していく、そのような仕組みが備わっていたけれど、対外的な戦争や内戦の果てに、例外状態を常態化させるような〈軍事的権力〉の〈一者〉集中が持続し、〈宗教的権力〉、さらには〈政治的権力〉の簒奪気配もでてきたけれど、つまり、独裁的な王権ぽいものの誕生前夜まで接近しつつも、カエサル暗殺という、いわば揺り戻しもあり、皇帝による帝政に至った、ってな感じですね?


ミサ〉 まとめてくれて、ありがとう。

 ちなみに、まったくの余談だが、おもしろい本をみつけたので紹介したい。レイ・ローレンス『古代ローマ帝国 トラベルガイド』(月森左知訳、創元社、2010)だ。これは古代人が執筆した旅行ガイドブックの体さいで書かれており、ユニークで、おもしろいぞ。


我聞〉 そういう感じの本だったら、活字嫌いのオレでも読めそうな気が・・・・・・





1 ローマもアテネと同じく小さな都市国家からスタートしているわけだが、片や共和政へ進み、片や民主政へ進んでいった、その理由について、一つには、「人間集団のあり方が異なっていた」ことが挙げられるという。もともとローマ人もギリシア人も部族集団だったが、ローマ人の場合は、有力な富裕層が氏族社会を形成しており、その周りに民衆がいた、つまりあらかじめ身分差を内包していたのに対し、ギリシア人の部族集団は身分差が希薄で、平等意識の強い村落社会のようなものだったという。ローマ人の格差のある氏族社会が共和政へ展開し、ギリシア人の平等な村落社会が民主政へ展開したのだった。(参照文献:本村凌二『教養としての「ローマ史」の読み方』PHP研究所、2018:P36-37)


2 『アリストテレス全集17 政治学・家政論』神崎繁・相澤康隆・瀬口昌久訳、岩波書店、2018


3 小池和子『カエサル -内戦の時代を駆けぬけた政治家』岩波新書、2020:P226

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