第3話 爆笑の話

 これはまだ……私が高校生だった頃のお話です。


 えぇ……私には三つ年上の兄がおりまして、彼は公立の工業高等専門学校(略称:高専)に通っていたのです。


 私が高校二年生の夏休みでしたから、兄は二十歳ちょうど……高専の五年生で最終学年の夏、学生生活最後の夏休みを満喫していたのでしょう。


 アルバイトの予定を一杯に詰め込んでは、仕事のない日は友人を家に呼んだり、自分が友人の家に行ったり、彼女と遊んだり……たまにはフラリと旅行に行ったり、自由気儘な暮らしぶりでありました。


 え?

 親は心配しなかったのかって?


 あぁ、は男ばかりの三兄弟だったので……親にしても『よそ様のお宅のお嬢さんを妊娠させるような真似や、警察のご厄介になるような真似さえしなければ……未成年喫煙も未成年飲酒も家の中なら基本オールオッケー』みたいな軽々しいノリで、本気で適当な放任主義の家庭だったのです。


 実際のところ私の家族は、昔ながらの古びた団地に住んでいたのですが……1戸辺りの部屋が2DKで40㎡程度しかなかったので、ある時から隣り合う2戸を賃借し…片方を両親と長男、そしてもう一方を次男と私の二人で共用して暮らしておりました。


 私と次男で使用している部屋は台所のシンクこそ取り払われていたものの、かつてはDKであった場所に小さな冷蔵庫を置いたり……なんとはなしに兄弟でルームシェアをしているような、プチ独立しているような楽しい暮らしではありました。


 そんなある夏の夜、私が自室のベッドで寝ておりますと何やら隣室からヒソヒソと独り言を話しているような声が聞こえてきました。


『あぁ……兄が電話で彼女と話でもしているのだろう』


 そうですね、当時は携帯電話など影も形もない時代のことで……我々が所持していた通信手段と云えば、非携帯の据え置き型有線電話しかなかったのです。

 

 時計を確認すると蛍光色の緑がボウッと光る針の位置は午前三時前頃でしたか、寝惚けた頭が覚醒しないまま……薄らぼんやりと隣室のヒソヒソ声を聞くとでもなく耳に入れながら微睡んでおりました。


 その時です、突然……隣室のヒソヒソ声が止まったかと思うや否や、直後に爆発的にけたたましい笑い声が発生したのです。


「ギャアッハッハッハッハッハッハッーーーーーーーー!!!」


 いやいやいやいや……お兄さん、今は午前三時やで…………。

 そないに大声で爆笑しとったら、この寂れた団地でも……さすがに近所迷惑とちゃいますのん?


 私の内心のツッコミにも、兄の部屋から響き渡る爆笑が収まる気配はありません。

 真夏の熱帯夜に、安眠を妨害されてしまった私は……完全に覚醒した思考を怒りの赤一色に染めて、自室と隣室を隔てる安普請で薄っぺらな団地の壁を『ドゥンッ!!』と思い切り殴りつけながら叫びました。


「じゃかぁしぃんじゃっ!!

 ゴルァッ!!

 今が何時やと思うとんねんっ!!!」


 三兄弟の末っ子として上の二人に迫害され、隷属するように育てられた私ではありましたが……さすがの深夜に発せられた暴挙とも云うべき爆笑に、堪忍袋の緒はブツリと切れてしまいました。


 深夜に兄との大喧嘩すら覚悟をした私の一喝に、隣室の爆笑はピタリと停止しました。


 深夜三時に似合うシンとした静寂に包まれた私の自室に、次に聞こえてきたのは隣室からそっと謝罪する囁くような声でした。


「…………スマンかったな………………」


 平素の気性が荒い兄とは思えぬような声で詫びられた私は、深夜の殴り合いの喧嘩を回避した安心感からか……そのまま何も云わずに瞳を閉じて再び眠りの闇の中へと堕ちて行ったのです。


 翌朝、目が覚めた私は遅い朝食を摂りながら母と話していました。


「ヤスにいはおらんみたいやけど、ユーコさんとデートにでも行ったんか?」


 私の質問を一笑に付した母はこう言いました。


「ヤッちゃんは二日前から石垣島に旅行に行っとるやんか。

 アンタ朝から、何をボケたこと言うとんの?

 そんなこと言うとらんと、はように朝ごはんを食べ終わってよ。

 夏休みやから云うて、ダラダラしとったら何も片付かへんやん」


 そう言いながら洗濯機の方へと向かってペタペタと歩み去る母の背中を見つつ、私は呆然とそして愕然とした表情をしていたと思います。


『ホンマや……兄貴は旅行に行っとったわ………。

 ほんなら昨日、兄貴の部屋でヒソヒソと話しとったんは誰や?

 あの大声で、真夜中に爆笑しとったんは誰や?

 最初のヒソヒソ声よりも小さい声やったのに……何であの詫びる『スマンかったな』の声だけは、俺の耳に届いたんや?』


 私の自問自答の声を聞く者など誰もいませんでしたが、その後もずっとそのことと……あの『スマンかったな』の声の調子だけは私の脳髄にこびり付いて離れません。


 あれから数十年が経過し、あの時住んでいた団地も既に取り壊されて存在していませんし……兄とも年に一度会うか会わず終いで、そして父も母も鬼籍へと入って久しいのですが……私の中にはずっと或る疑問が残っているのです。


 あの時、私に詫びたの声に……睡魔に負けずに私がいらえを返していたとしたら…………私の身に何が起きていたのでしょうか。


 過ぎ去って久しい過去の事案について、眠れない夜を迎える度に、取り留めもなく思案を巡らす私の脳裏には……いつまでも『たられば』の言葉と『スマンかったな』の声だけがグルグルグルグルと廻っているのです。




【Laughing Spook:完】




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 幽霊を見ても、話しかけてはいけないとの説がある。


 理由は、幽霊に話しかけてもこちらの声は幽霊には聞こえないし、話しかけるだけ無駄ということになるからだ。


 しかし、逆に声が届く幽霊がいたとしたら、逃げることを選択すべきだと云う者もいる。


 何故ならその幽霊は、それだけ現世に妄執が深く、生者に災いをもたらす可能性が高いと思われるからだ。


 また声が届く・届かないの前に、きちんとその幽霊を成仏させられる能力を所持していないのに……むやみに話しかけてはならないとのことらしい。


 上記の説は、筆者の知人『自称:霊能者』の意見であり……筆者自身はそのような非科学的な神秘学オカルティズムとは無縁の存在であるから、その説を信じるも信じないも……読了した読者諸兄の自己責任にお任せしたいと思う。



2021.4.4

   澤田啓 拝


 

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