第二章 【ご報告】モカちゃんねるに編集スタッフが加わりました。

この場合、悪くはない

 冷静に考えてみれば、色々見失っていた。

 冷静にならずとも分かりきったことだが、はじめ暇つぶしのつもりで始めたビューチューブが、俺の日々を圧迫していたのは確かだ。

 バイトはとりあえず見つけるつもりだったけれど、いつの間にかビューチューブで一発当たるような気がしていた。

 甘すぎて、高級な和菓子みたいに俺と一緒に塩昆布が出てきてしまう。


 これなら、俺にでもできる。その感覚は、麻薬だ。

 ビューチューバーになるためにしっかり貯金し、活動ができる素地をもって取り組むのと、とりあえず日々の面倒ごとから眼を背けるためにそれをするのとでは全く話が違う。

 モカは遠回しに、そして直接俺の心臓に杭を打つような言葉でもって、俺にそれを提示した。


 俺は、プライドが高いのだろうか。モカが今日したような言い方を選んだのは、俺のプライドが非難を避けるのではと警戒してのことなのだろうか。


 重たい話をした喫茶店でそのまま昼飯を済ませ、撮影を再開し、南禅寺からインクラインにかけて散策をし、地下鉄蹴上駅で別れた帰り道、俺はひたすら思考を回している。


 ちなみに、インクラインというのは明治二四年から昭和二三年まで京都と琵琶湖を繋ぐ人工運河である琵琶湖疏水のうち、蹴上の傾斜地において船を台車に載せて運搬していた傾斜鉄道のことを指す。

 琵琶湖疏水を利用した近隣の蹴上発電所の電力で台車が巻き上げられており、当時は日本における近代技術の結晶であったようだ。


 そんなこと、もちろん俺が知るはずもなかったが、モカはさすが京都好きだけあってちゃんと知識を持っていて、解説をしながら春には視界いっぱいにピンクが広がるであろう桜並木を歩いた。


 南禅寺の山門にも登った。けっこう高いうえに足場がふわふわしていて、アトラクションみたいだった。それらを、俺は、モカの後ろでカメラを構えながら撮影をした。


 モカの動画の撮影だから、俺はほぼ一言も喋ってない。モカは、出演してもらうつもりで今日誘ったつもりだったようだが、スタッフになるためにまずバイトを見つける約束をした俺は、まだこの世に存在していないのだから、話さないのでちょうどいい。


 帰り道、なんとなく思い立って平安神宮方面に足を伸ばしてみた。

 神宮道三条のあたり、そういえばモカの動画でこの辺も紹介されていたなと思いながら、理由なく入った裏通りにある古いカフェの前で、足を止める。


 ——急募。アルバイト求む!


 喫茶店での二年間のバイト経験があれば、雇ってもらえるかもしれない。ここなら、家からもわりと近い——自転車はさっさと売ってしまったから、頑張って歩かなければならないが——。白川通をずっと下って、東天王町から細く伸びる道を、岡崎道あたりを下って三条まで出るかが良さそうだ。あのあたりはちょっと考えられないくらい巨大なお屋敷なんかもあり、なぜか塀をクリスマスの飾りみたいに監視カメラと有刺鉄線がデコっていたりするが、それは余談。


「あのぅ」

 いらっしゃいませ、という五十代くらいの男女の声。夫婦で経営しているんだろうか。勧められるままにテーブルにつき、手渡されたメニューを弄びながら、もう一度。


「あのぅ」

「はいはい、お決まりですか」

 いかにも愛想良しという具合のオバチャンだ。さっそくオーダーを取りに来た。


「表の貼り紙見ツァんですけどぉおヒヒヒ」

 キモ、と自分で思った。緊張するあまり噛み噛みで、それについて自分で笑ってしまっているから無惨だ。

 チャンスがあっても、自らそれをフイにする。もしかしたら、俺にはそういう十字架さだめが科せられているのかもしれない。


「ああ、バイトの?なに、お兄ちゃん、働いてくれんの?」

 オバチャンは俺のオオキモイヒイヒ症候群のことには気を向けず、景色を浮かべた。


「お父さーん、ちょっと」

 コーヒーでも淹れているのだろうか、気難しい背中をこちらに向けていた男性の方が振り返る。

「バイト希望の人やって。ちょっと、来てぇな」

「聞こえてる。待っとれ」

 お父さんと呼ばれたマスターは背中で呟き、手元の作業を続ける。


「あんた、学生さん?いやー、助かるわぁ」

「あ、いえ、僕は」

「もうこのご時世やろ。こないだまでバイトの子いてんけど、大学辞めて実家帰ります言うていきなりそれっきりえ。うちもほら、娘が手伝てっとうてくれてるやろ。それもこの春大学出て忙しいさかい、どないしよか思てたんよ」

 オバチャンは聞きもしないことを勝手にべらべらと喋りはじめた。娘が手伝うてくれてるやろ、とか知らねえしと思ったが、こっちの人はわりあいそういう物言いをする。


 京都人というよりは、大阪の商店街をサングラスでうろつきながら豹柄の服を着て、「この服ええやろ。うちタイガースファンやさかいな」と五百メートル向こうの人に話しかけているのかというような声量で高らかに宣言するタイプかなと思った。


 俺の脳内に現出したその名もなき大阪のオバチャンが差し出してくるアメチャンを断りながら、お母さん、タイガースファンなんだったら虎柄じゃないですか、それ豹柄ですよとツッコミを入れているとき、お父さんがにわかに作業を終え、一杯のグラスをトレイに載せて運んできた。


「まあ、飲みや。うちの自慢のアイスや」

 差し出されたそのグラスは水滴をまとっていて、注がれているコーヒーはチョコレートよりは薄く、俺が今腰掛けているレトロなソファの革張りよりは濃い色だった。


 俺は、もしかすると凄い店に来ているのかもしれない。手にしたグラスからは冷たすぎず、それでいて早くその喉越しを味わいたいと思うような感触が伝わってきている。

 神々しさ。一言でいえば、それだ。ここは、おそらく、有名ではなくインスタ映えとも無縁だが、究極の一杯を追い求める人が足を運ぶ約束の地シャングリラ


 まだ口を付けてもないのに、俺の喉が音を立てる。おそるおそる、コーヒーを口に含む。ホットにばかりこだわる純喫茶と違い、アイスというのがいい。

 歌舞伎役者が休日に立ち寄った高級店でワインのテイスティングをするように、舌の上でそれを確かめる。


 ——まずい。

 はっきり言って、最悪だ。濃いというのとはまた違う、何とも言えないエグ味がある。例えツッコミの神と一部界隈で言われる俺をして困惑せしめるほどに、何とも言えない那由多の不味さが寄せては返す波のように口と鼻の中で変拍子のステップを踏んでいる。


「どや。お兄ちゃん。美味いか」

 俺は、答えに窮した。正直なことを言えば、採用してもらえなくなる。だが、うちの自慢だと言って出された不味いものを不味いと言い切ってしまうのは気が引ける。

「すみません、コーヒーの良し悪しがよく分からなくて——」

「構へん。味なんか、しょせん人の好みや。思ったとおりの感想でええ」

 マスターは頭が禿げ上がっていて、なおかつジム通いでもしているのかやたら体格がいい。しかも声が野太く、もうジェイソンステイサムにしか見えない。


 考えろ。考えろ、俺。回答を間違えれば、目の前のステイサムの繰り出すアーミーナイフで喉を掻き切られる。

「——なんか、酸っぱいような。あ、でも冷たさはちょうどいいです」

 終わった。俺の生命が、物理的に。自分の口から出たハズレワードに愕然としてうなだれると、寝癖の直りきっていない頭頂部に野太い声が降りかかってきた。


「そやろ。三十年やっても、これや。俺の親父の味が、どうしても出えへんねや」

 え、と俺は顔を上げた。たぶん、穴から出てきたミーアキャットみたいな表情になっているだろう。


「親父のときはな、至高の一杯や言うてみんながコーヒー飲みに来た。そやけどな、俺には未だできひん。親父の時代の評判でまだお客さんは来てくれるけどな、だんだん減っとる」

 ステイサムの語りを、俺はただ聴いた。

「あんたは、このコーヒーを美味いとは表現せんかった。最近のお客さんは、味の分からん人ばっかりや。そやけどな、俺は思うんや。自分がほんまに自信を持って提供できるコーヒーが淹れられへんくても、お客さんを喜ばす工夫だけはやめたらあかん、諦めたらあかんと」

 ステイサムにしてはよく語る。案外語り出すと止まらないタイプかもしれない。


「若い人に来てもらおうと、色々やってみてんねんで。娘には不評やけどな」

 そう言ってステイサムはメニューを開いた。

「これはな、コーヒーにサツマイモのきんとんに練乳かけたやつが乗ってるねん」

 なんというか、味の想像がつかない。

「ほんでな、これはアイスティーに梅の味のグミ浮かべてな。そこにホイップクリームを」

 なんだかもう、グロい。誰か介錯してやってくれ。

「え、マスター、もしかして」

 もう我慢できない。俺の中のツッコミ担当が悲鳴を上げ、それが言葉になって口から飛び出した。

「引き算知らない人?」

 そうだろう。コーヒーや紅茶というある程度パッケージ感のあるものに、主役級のものをバシバシ足している。これじゃあ、ステイサムとスタローンとドルフラングレンとシュワちゃんが共演しているようなもの——あ、実際そんな映画あったっけ——だ。


 やっちまったか、と冷やりとした俺の顔を見つめて、ステイサムは大笑いした。奥さんも、大爆笑している。

「いやあ、あんた気持ちええわ。うちで働いてくれんねやろ?最近の若い人にどんなんがウケるか、ぜひアドバイスしてえな」

 とりあえず、俺に新しいバイト先が決まったらしい。案外、すんなりいった。これだけのことをするのに、今までの俺は何をグズグスしていたのか。


 見てろよ、モカ。悪いが、もうクズとは呼ばせねえ。来週から働かせてもらえることになり、時給やら何やらのことを一通り聞いて、俺は店を飛び出した。


 モカに電話して報告しようとしたが、浮かれているみたいになるのが嫌だからとりあえずメッセージにした。

 ——バイト、決まったよ。


 もう帰宅しているであろうモカから、すぐに着信。仕方ねえな、とことさらに心の中で呟き、応答する。

「ほんま?早っ」

「約束だからな」

「うん、偉い偉い。さすがやね」

「お前なあ」

 さっそく、今日の撮影データを送るよう要請した。


「よろしくお願いします」

 とスマホの向こうで改まったモカの声を聞いて、どういうわけか、同じ土俵に立てたような気がした。

 たかが喫茶店のバイトが決まったくらいで、笑わせるぜ。そう俺の中の厨二マンが鼻で笑うが、彼に言わせると、

 ——ま、この場合、悪くないがな。

 といったところであろうか。

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