不本意なのか本意なのか

「ちょっと、話しようか」

 と硬くなったモカの声に抗うこともできず、無言で歩く。俺の食料調達先の喫茶店をやり過ごし、別の店へ。


 最も悪いと書いて最悪と読むが、これはもう悪いとかそういう問題じゃない。無だ。無だった俺が無に帰るだけなんだから、逆に平気かもしれない。


 観光客向けに営業しているであろう店に足を踏み入れる。いっときよりも京都を訪れる人は増えているとはいえ、やはり店内の客入りはゴールデンウィーク最終日とは思えないような様子で、席は空いていた。

 女性を奥のソファ側に、とネット記事で見た。そのとおりにモカにソファ席を勧めるが、うっかりドヤ顔をしかけて焦った。


「ハルタ君、仕事してないん?」

 そんな俺のバカな心中など知る由もないモカが切り出した本題には、詰問するような響きはない。それがかえって辛い。注文を取りに来た店員さんにアイスコーヒー、とだけ呟いたよりももっと小さい声で、俺は答えた。

「就職決まらなくて。この前までバイトしてたんだけど、クビになった」

「そうなんや。知らんかった」

 そりゃあそうだろう、と思った。知られないようにしていたのだ。


「大変やのに、全然知らんとわたしの遊びに付き合わして、ほんまにごめん」

「謝るなよ」

 謝るのはこっちの方だ。久々に再会した大学の同期に今の現状を知られたくなく、隠して嘘をついていたのは俺だ。そう言いたかったが、うまく言葉が出てこない。


 俺の精神状態は終わりかけのジェンガだ。あと一本何かを抜けば、瓦解する。テーブルの上の水を飲み下しても、何の味もしない。水だからか、と気付くまで二秒ほどかかった。


「今は?バイト探してるん?」

「うん、まあ」

 今の今まで心配そうな色を浮かべ、俺の近況がどのようなものであるのかを理解しようとしていたモカは、そこではじめて目を沈めた。


「あんまり探してないんやね」

「——うん、まあ」

 モカはスマホを取り出し、しばらく何か操作をし、画面を俺に提示してきた。


 ——ハルタの日常。


「え、待てよ、なんで」

「なんとなく、ハルタ君もビューチューブ始めたんちゃうかなって思って。前から、行動力ある方やったし」

 行動力。俺に、そんなものがあった試しはない。だけどモカにはそう映っているのなら少し救われるが、だとしたら余計に今の俺の駄目さが際立っているだろう。


「探してみたら、あった。見つけたよ」

 見つけたよ、という何気ない一言。

 どういうわけか、俺は泣いてしまいそうになった。


 ゼロ。

 俺は、この世のどこにも存在しない。一○一号室の鮫島さんだって生活保護を受けながら、たまに役所の人の訪問を受けて職探しがどうだとか打ち合わせをしているらしい。

 それすらもない俺は、大家さんに迷惑をかけ、ゆくゆくは親にも迷惑をかけるだけの存在でしかない。この社会のどこにも、俺はいない。


 その俺を、モカは探して見つけた。べつにそんな大した意味ではなく、ビューチューブのサイトで「ハルタ」とか検索すればすぐに見つかるわけだが、それでも、俺はモカの言うことを拡大して落とし込んでしまうほどに追い詰められている。


「ハルタ君の勝手やから、わたしがあんまり言うことじゃないねんけど」

 と前置きをした上で、モカは人間が言いづらいことを言うときの所作を見せた。


「毎日投稿してるやん?編集もしてあるし。けっこう大変なんちゃう?」

「うん、まあ」

「その時間のいくらか使って、バイト探しをもっとしいひんの?」

「うん、まあ」

「生活費とか家賃とかどうしてんの?仕送り?」

 そんなものはない。俺の実家は千葉の片隅で細々息をしている農家だ。千葉といえば東京に近く、都会のように思うが、俺の実家のある南部の安房の方はそんなことはない。


 農家を継ぐつもりなんて、さらさらない。うちの規模なら年中無休二十四時間営業で、やっと家族が食える程度の収入にしかならない。

 だからこそ、俺は京都のいい大学に入った。親父もべつに俺に農家を継がせることはないと思っているようで、むしろ喜んでくれていた。


 そんな風にして京都に出てきたから、いまさら就職に失敗しました、だから帰ってきました、なんて絶対に言えない。


「貯金切り崩してるんやね」

 モカは、ドリーミーな匂いを醸しはじめる俺の思考を容赦なくこのいたたまれない現実に引き戻す。


「貯金も、ない」

 死にかけの虫みたいになった俺は、白状した。モカは驚いた声を上げ、またその眉に心配の線を重ねた。

「いや、ハルタ君に何か考えがあってそうしてるんやったら全然いいねんけどさ、正直ビューチューブとかしてる場合ちゃうんちゃう?」

 仰るとおりです。


「家賃も滞納してるんやろ?ちゃんとしなあかんのちゃうん?」

 返す言葉もございません。


「全然知らん人やったらあれなんやけど、仲いい同期が困ってるんやったら、わたし放っとけへんわ。うるさいと思うかもしれんけど、言うだけ言わせて」

 どうぞ。お好きに調理なすってくだせぇ。


「ハルタ君は、どうなりたいの?」

 モノローグで片付けることを許されなくなった俺は、重金属みたいになった唇を開かざるを得ない。

「——俺をちゃんと評価してくれるところに、就職したい」

「それやったら、就職活動はしなあかんよね?」

 もちろん、そうだ。

「納得のいく就職がしたいのは、よく分かるよ。わたしも、今の会社二つ目やもん」

 それは、知らなかった。確かモカは在学中に大手に就職が決まっていたはずだが、そこをすぐ辞めて今の会社に移っていたのか。


 だとしても、モカは俺とは違う。成功している。

「それやったら、しっかり就活するためにも、バイトしな。毎日のことにも困りながらやったら、決まるもんも決まらへんのちゃう?」

 モカのな物言いは、正直さなんだろうが、この場合俺の肺をえぐる。それが心臓に到達した瞬間、俺は死ぬだろう。


「趣味もいいと思う。動画見たけど、わたしめっちゃ笑ったもん。批判的なコメントとかも、気にすることない」

 ついさっきのコメントのことだろうか。だとしたら、モカはここに来るバスの中でも、俺の動画を見てくれていたのだろうか。


「ちゃんと働く。バイトでも何でもいいやん。喫茶店の余り物よりは、コンビニ飯の方がいいやん。大家さん困ってはるやろうし、家賃はちゃんと払お?んで、ちゃんと遊べばいいやん」


 遠回しに、さっきのコメントと同じことを言われている気がした。ろくに仕事もせず極貧のくせに、ビューチューブで一発当てようと思っているイタい奴に映っているということだ。


「ハルタ君、今日会ったときから元気なかったから。さっきのコメント気にしてるんかなと思っててん。そんなときにわたしみたいなんからあれこれ言われるん嫌やろうけど」

 それで、余計なお世話だ、と声を荒らげることもできなくなった。もともとそんな胆力もないが。


「でも、それだけビューチューブが楽しいと思ってやってるんやなと思って。動画見てて、なんか共通の趣味の友達ができたみたいで、嬉しかった」

 なんだろうなあ、ホスピタリティとでも言うんだろうか。モカの見せるこういう歩み寄りの姿勢みたいなものが、彼女にいい就職先やそこでの重要な役割と収入と人生の保証を与えているのだろう。

 それならば、俺はやはり駄目だ。モカを前にすると、より自分が無であることを痛感する。


「な、約束して」

 なにを。

「せめて、バイトはする。そのうえで、就活なり趣味なりをする」

 なんで、俺がモカと。大家さんはモカが俺の彼女か何かだと勘違いしたらしいが、こないだ再会したばかりのただの同期と、何を約束することがあるのか。


「——わかった」

 それをハッキリ言えない俺は、目の前の成功者に同意するしかなかった。


「よかった。安心した」

 俺の生活の面倒を見てくれるわけでもなし、仕事を紹介してくれるわけでもなし、勝手に心配して勝手に俺についての約束事を持ち出して、勝手に安心する。女なんていう生き物は全部こんななのだろうかと童貞歴イコール年齢——何か問題が?——の俺は思う。


「ハルタ君、プライド高いからなあ」

 安心したのか、モカは声の色を変えた。

「俺が?」

 自覚はない。ただ、社会が正しく俺の価値と努力を評価しないだけなんだ。

「低いよりはいいやん。大事やと思うよ」

 でも、とモカは続ける。

 プライドがために俺は人生の歩みを止めてしまっている。虚心に自分を見つめ直して正しく認識することがまず大事。要約するとそういうようなことを言った。


「とことん、俺クズじゃん。自分が何もできないのを世の中のせいにしてさ、自分で何かしたかって言えば何もしてない。世の中のせいにして、何もしない」

「なんや、分かってるんやん」

 もちろん、モカは冗談で言っている。しかし、一番認めたくないし言われたくないことだ。


「モカはさ、いいよな。仕事大変そうだけど、充実してる」

 これ以上俺についての話題が続けば俺は文字通り消滅してしまう。だから、話題をモカに向けた。

「そうでもないよ。今の仕事も不満ばっかり。目の前の案件より上司の機嫌取り。純粋に利益を追求するより、偉い人らの頭で納得できるアイデアが必要」

「なんだよ、しっかり社畜じゃん」

「まあ、しょうがないと思うしかないね」

「こないだも言ってたけどさ、じゃあ、せっかく動画撮影してもなかなか投稿できないんじゃない?」

 そうやね、とモカは困った顔を見せた。

「今日撮っても、編集する時間がないし。今ちょうど仕事も忙しいから、投稿できる頃には青紅葉じゃなくて紅葉のシーズンになってしもてるかも」


 どういう神経伝達物質の分泌があったのか、俺は不思議なことを口走った。

「——俺、編集してやろうか?」

 え、とモカは俺の言うことを飲み下すのに時間を要しているようだった。

「いやさ、どうせ俺のチャンネルなんて登録者数二人だし。続けても仕方ないよ。でも、やってるうちに編集のコツみたいなのが見えてきたりで、モカの言うとおり、けっこう楽しんでる」


 今の俺がすべきなのは、この地獄の時間から抜け出し、かつての同期の前から消え去ること。それなのに、俺は、モカの動画の編集者を買って出ている。

 とことん、情けない。モカの諌めに対してうるせえ、大きなお世話だと啖呵を切ることもせず、大きなところを見せようと耳に痛いことも平気というような素振りで、なおかつモカとの継続的な交流を求めている。


「いや、でも、ほんまに悪いよ。そんなん」

「いいよ。せっかく見つけた趣味だし、続けてみたいから。編集だけならお金もかからないし」

 あろうことか、お試しで一本編集させてくれ、それで使えなかったらボツにしてくれていい、とまで言っていた。


 最悪だ、何言ってんだ、と俺の中の何者かがお手上げポーズを取るが、仕事もない、友達との連絡もない俺は、これをこそ求めているのかもしれない。

 モカの言う通りに自分を正しく認識する必要があるのなら、これでいいのかもしれない。


「ハルタ君の編集めっちゃ面白いし、わたしは助かるねんけど。でも、ほんまにいいの?」

「何なら、カメラマンもしてやるよ」

 モカは声を出して笑い、そやねえ、とこちらに傾いた。


「じゃあさ、まずバイト見つけるわ。そうしたら、今日撮影するデータ送って。編集するから」

 それで、決まった。

 不本意なのか本意なのかよく分からないけれど、まあ、成り行きだから仕方ない。


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