グッドラック

燈 歩(alum)

グッドラック

「あんたもだいぶ汚れたねぇ」


 柔らかなガーゼのハンカチがわたしのボディを優しくこすっていく。排気ガスや花粉や雨や泥でザラついて気持ちが悪かったのが、どんどん綺麗になっていく。


 新品同様、というわけにはいかないけどツルツルになって生まれ変わったみたいだ。


「茂、いつものコンビニにいるんだけど何か買うものはあるかい?」


「母さん、こんなご時世なんだから家から出るなって言ってるじゃないか。早く帰ってきなよ」


「心配性だねぇ。少しは運動しないと身体がなまっちまうよ」


 話を終えたおばあさんはコンビニの中に入って行った。


 白、黒、赤、青、灰色、黄色、緑。めまぐるしく変わる車の色に、人間は休む暇などなくなったんだなと感じる。


「はい、ええ。その件でしたら……」


「今コンビニまで来たところ。なんか買ってくものある?」


「俺がどこに行こうと勝手だろ」


「これで何件目? またここにもなかったら」


「お菓子はひとつまでですよ」


 わたしが見向きもされなくなって、一体どのくらいの時間が過ぎただろうか。小型化されて携帯に便利な後輩たちが安価な値段で手に入るようになってからは、わたしは過去の遺物になってしまった。


 さっきのおばあさんは、そんなわたしをまだ見てくれる数少ない人間だ。忙しない人々を見ていると、わたしの周りだけ時間が止まってしまったかのように感じる。


 学生の恋路を手伝ったり、家族への連絡を取り次いだり、重要な待ち合わせの約束を交わしたり、様々な人間たちをいつも隣で見守って来たのに。


 存在しない番号は取り次がない、というマニュアルを忘れてとんでもないところへかけてしまったことも懐かしい。ここに来てすぐの頃はそれだけ忙しく、わたしという存在が認識されていたのだ。


 夢や希望を胸に、どんな人間たちの役に立てるのか、胸を躍らせていたあの頃が随分昔のことのようだ。


 人間は勝手だ。便利になるから、最先端だからと、わたしたちを生み出したくせに、もっと便利なものが登場したら、あっという間に忘れてしまうのだから。


 嘆いたところで、わたしにはどうすることもできない。わたしたちの使い方すら知らない人間が多いこの時代では、撤去されお役御免となる日を待つしかない。利用してくれる人を待つのではなく、いつ来るともしれない最後の日を待ち望むなんてどうかしている。


 あのおばあさんだけが、わたしを見て、利用して、気にかけてくれる。きっとわたしを使う最後の人間になることだろう。


「美加子さん、今コンビニにいるんだけどね、何か買って帰るもの、あるかい?」


 さっきのおばあさんがコンビニから出たのに、またわたしを利用している。もしかしたらボケちゃっているのかもしれない。それでも、わたしの使い方とわたしの存在を覚えていてくれたことに喜びを覚えるなんてどうかしている。


「おかあさん、この前買ったケイタイはどうしたんです? 使い方も教えたじゃないですか。それなのに」


「買うものはないのかい?」


「ありません。いいから早く帰ってきてください」


 ピピーピピーピピーピピー―――。


 ガチャリと音を立てて戻し、そのままわたしを撫でている。おばあさんの手はしわしわで、温もりがあって、乾いた柔らかさだった。


「あんたが先にいくなんてさ、思ってなかったのよ。ずっとここで助けてくれてたのにねぇ」


 わたしのことを撫でながら、おばあさんは言っている。


「あんたの仲間か家族か、ともかく学生の時なんかはよく使ったもんさね」


 わたしのボディをまたハンカチで拭きながら言っている。もしかして、わたしに話しかけている……?


「お父さんが怖くて家では、自由に電話できなくてね。だから、友達なんかによくかけていたね」


 話しかけられるのは初めてのことで、どうしていいかわからない。背中がむず痒い気がする。誰かと誰かが会話するのはいつも聞いていたけど、まさかわたし自身に話しかけてくる人が現れるなんて。


「流行っているテレホンカードなんかもあったりしてね。今日、あんたに使ったのはその残りだよ。懐かしいねぇ」


 ひとしきり撫でさすったあとで、おばあさんはわたしに言った。


「今までありがとうねぇ。お互い、時代の波には逆らえんってわけだ。友達が減るみたいで寂しいけど、元気でやるんだよ」


 ポンポンと励ますようにわたしを叩いて、おばあさんは背を向けてそっと帰って行った。


―――――


 ガガガガガガ。


 夜、わたしの前にグレーの作業着を着た男の人が二人現れて大きな音を立て始めた。


 昼間、おばあさんが言っていたことはこれだったのか。待ち望んでいた最後の日が今日だったんだ。


 ホッとするような、寂しいような。もうあのおばあさんの連絡をつけてあげることはできない。もうあの学生の帰宅コールを繋いであげることはできない。もうあのいつも煙草を吸う人の缶コーヒー置き場に使われることはない。


 もっと面白い話だってあったと思うのに、思い出すのがそんなことばかりで、やっぱりわたしは時代遅れなのだろう。


 他の場所は知らないけれど、わたしから見える景色だってそれなりの変化があったと思えば、随分長く居たような気にもなる。何もなかった空き地に家が建って、道路が綺麗になって、広くなって。訪れる人間も、車も、時代と共に変わっていった。


 こんなこと、最後の日にならないと気にしなかったんだな。


 なんだ、わたし、結構がんばったじゃないか。


 おばあさんにも話しかけてもらえて、完全に忘れられた中でここを去るわけじゃないじゃないか。


 暗くて見えづらい景色をもう一度目に焼き付ける。いつもおばあさんが歩いて行く道。学生が自転車で通っていた歩道。色とりどりのカッコイイ車が走り去っていた道路。その向こうの家々の明かり。今日は三日月だ。星もよく見える晴れた空だ。


「おい、コンセント抜いてないじゃないか。先にやらないと」


 うっかり忘れてくれていたおかげで、最後の準備ができてよかった。


 またどこかで。さような

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