近似値

     ◆


 目の前に女の子がいる。

 奇妙な制服。どこの高校の制服だろうか。いや、学校っぽくはないような。

 年齢は十六歳くらい。中学生ではないはず。真っ白い肌、華奢な肩のライン、綺麗な黒髪。

 彼女の口が動く。

 何を言われるか、私は知っている。

「あなたはやっと現実に戻ってきたわね」

 私にはその意味はわからない。

 わからないのに、私は頷いている。

 そして女の子が、小さな鏡をこちらに向ける。

 それを手に取り、私は自分の顔をそこに映し……。


     ◆


 悲鳴を上げて目が覚めた。

 自分の部屋だ。両親と生活している、ベッドタウンのありきたりな街並みに属する、無個性な一戸建ての、二階の、一室。

 今、何時?

 カーテンがわずかに明るいだけで、部屋は全体的に薄暗い。

 覚醒が追いついた私はそこが自分の部屋であることに心底から安堵して、体を起こす。ベッドの枕元に置かれているデジタル時計を見る。

 四月二十八日、月曜日、午前六時二十六分。

 今週末から大型連休だ。そう思った次には、夢の内容を考えていた。ただ、どんどん散漫になっていく。

 実は、あの女の子の夢は何度も見ていた。全てのシチュエーションが同じだ。もう三回目か。

 私は夢の中で鏡を見て、しかし鏡に映っているものを理解する前に、目を覚ます。

 その繰り返しだった。

 ため息をついて、ベッドの上で寝返り打ち、仰向けで目を閉じた。

 少し早いけど、起きようかな。


      ◆


 薄暗い場所。

 どこかの倉庫みたい。私は私じゃなくて、どうやら男性らしい。

 何が起こっているんだろう?

 私は防弾チョッキにヘルメット、黒い戦闘服で、今は手に短機関銃を持っている。腰には拳銃もあった。

 なんでこんなに多くのことを私は知っているんだろう?

 他に同じ装備の男性が五人。安全を確保しながら、通路の奥へと進む。

 私はどうやら、夢を見ているらしい。

 耳にはイヤホンがあり、無線通信が行き交う。早口でネイティブそのままの発音の、たぶん英語だった。英語か。ハリウッド映画の影響を受けたような夢らしい。

 男性の一人がドアの脇に立つ。何か小さな鏡で薄く開いているドアの奥を見て、他の仲間に頷いてみせる。

 まさしくハリウッド映画のアクションさながらに、六人のうち四人が室内に突入した。

 そのうちの一人が私で、えーっと、私とは誰なんだ?

 目の前には死体。一眼見ただけで、具合が悪くなる。それは私が具合が悪いのか、私という男性の具合が悪いのか、どちらだ?

 それよりも、その死体の手元に何かの装置があり、コードが伸び、コードはドアに繋がっていて、そのドアは私たちが蹴り開けて突入していたわけで、そして状況を理解して、私は慌てた。

 他の仲間と一斉に部屋を飛び出し、通路を駆ける。

 全力疾走。

 直後、轟音とともに爆風が駆け抜け、破砕物の嵐が吹き抜け、床が揺れ、壁が歪み、天井が崩落していく。

 誰かが悲鳴をあげた。

 走らないと。

 走って逃げないと。

 でないと……!


     ◆


 私は駆け出して、しかしそれは高校の教室で、自分の席に座っている状態だったので、ひどいことになった。

 椅子から不自然に前に飛び出し、机を跳ね飛ばして、転倒すると、教室がしんと静まり返った。

 私は体のそこここが痛むのを感じながら起き上がる。ここは、どこだ?

 高校の教室。昼間。クラスメイトの視線。

 私は冷や汗に塗れていた。

「レイカ、大丈夫? なんか、変なコントみたいになったけど」

 クラスメイトで友人のアミナが笑いながら手を貸してくれる。倒れた机も起こしてくれる。教室ではやっと私に対する笑いが起こり、休み時間で良かったなぁ、と思いながら、もう一度、椅子に腰掛けた。

「寝てたみたいだったけど、盛大に寝ぼけたね」

 私の斜め前の席でアミナと話していたらしいリコが笑いがこらえきれない、という表情でこちらを見る。

 私はムッとしながら、しかし事実なので、何も言えない。

 さっきの夢は変にリアルだったな。

 映画というより、まるで現実だ。

 あの男の人たちはどうなったんだろう?

 よく思い出せないけど、何かを調べるために倉庫に入って、罠みたいなものにはまって、それで、建物が崩れた気がする。

 建物が崩れるなんて、相当な爆発だ。

 やっぱり私の妄想かも。その方が落ち着く。

 チャイムが鳴り、ほとんど間をおかずに次の授業の古典の教師が入ってきた。

 アミナとリコが自分の席へ戻り、私も教科書とノートを取り出した。


     ◆


 私は何かの車に乗っている。

 どこかで見覚えのある通りで片側二車線。目の前に交差点が近づいてくる。

 隣に男の人がいた。二十代、じゃないかもしれない。髭が少し伸びていて、服装は地味な背広。腕時計だけは高級そうだ。

 私の視界で、その時計の文字盤がよく見える。十六時四十三分、日付は七日で、曜日は水曜日。

 えっと、今日は何日だっけ。

 私はまた夢を見ている。そうとはわかっても、今日の日付はどうしてもわからない。

 車を運転しているのは、警官だった。少なくとも、警官の制服を着ている。顔は見えない。バックミラーに目元が見える。まだ若いとそれで分かった。

 道路はいよいよ交差点。この車は直進する。この車はパトカーだ。不意にわかった。

 すぐ左を左折のレーンに進んだどこにでもありそうな軽自動車が、ほぼ並んでくる。

 私が視線をなぜか右へ。

 交差点。

 突っ込んでくる。

 大型トレーラー。

 信号を見る。こちらが青、向こうは赤のはず。

 かなりのスピード。

 ブレーキをかけない。

 私のすぐ横の背広の男性が、覆い被さってくる。

 運転席の警官の人が、ハンドルをぐっと切る。強烈な慣性。

 ダメだ。

 間に合わない。

 私が乗る車は、大型トレーラーに引きちぎられて、私は……。


      ◆


 悲鳴を上げて飛び起きると、キッチンに立っている母親が驚いた顔でこちらを見た。

「どうしたのレイカ? 急に声を上げて。夢でも見ていたの?」

「うん……」

 くらくらする。

 まるで自分が一度、本当に死んだみたいに、最低な気分だ。

 ソファから立ち上がる時にめまいがするんだから、相当なものだ。

 キッチンへ行って、グラスを取り出す。

「もう連休も終わりなんだから、ちゃんと夜には寝なさいね」

「別に夜更かししてないよ」

 そう応じながら、私は冷蔵庫の中のオレンジジュースをグラスに注いだ。手元が狂って、こぼれそうになる。

 それにしてはよく眠っていたけどねぇ、なんて母親は笑っている。

 私はグラスを手にさっきまで横になって眠っていたソファに腰を下ろし、オレンジジュースを一口飲んだ。

 何かこのところ、夢ばかり見る。

 テレビをつけたのはただ目の前にリモコンがあったからで、深い意味はない。

 今日は五月六日、火曜日。時間は十五時を過ぎたところ。

 適当にチャンネルを回すと、全国放送のワイドショーというのか、報道番組というか、その手の番組がやっている。ワイドショーにしてはどこか固苦しく、報道番組というにはバラエティに富みすぎている。

 ちょうど海外のニュースの時間になった。

 中東での民族紛争は終わることがない。中国では新型の軍艦がお披露目され、韓国では例のごとく政治家が汚職でニュースになる。

 それから、アメリカ。

 唐突に何かが繋がったのが、無意識に理解できた。

 どこにあるかもわからない州の、人里離れた小さな街の倉庫が丸ごとひとつ、倒壊していた。

 事前に警察による犯罪捜査があり、建物の倒壊は爆破によるもので、六人の警官が巻き込まれていた。

 嘘みたい。

 私はこれを知っていた。

「嘘」

 思わず言葉に出ていた。しかし現実だ。

 夢ではない。私が見た夢は、現実だった?

 あの時、学校での休み時間に見た夢。あれは何日前? 大型連休の前、一週間は前だ。

 ただの偶然?

 でも、私はあの時、男の人で、仲間が五人いて、ニュースでは六人が巻き込まれていて、それはつまり私と仲間の五人で……。

 何がなんだか、わからなかった。

「ちょっとレイカ、床にジュースをこぼさないで!」

 母親の声にはっとすると、私は手が濡れて、握っていたグラスは傾いてきて、オレンジ色の液体が床に落ちていて、そう、意識がどこか、現実を離れていたようだ。

 ごめん、などと言いながら、グラスをテーブルに置き、私はティッシュでオレンジジュースを拭った。

 これは現実。夢ではない。

 ではあの夢は、夢なのか。

 あの夢。

 まるで本物みたいな夢。

 夢みたいな悲劇。

 現実の悲劇。

 私は手が微かに震え始めていた。


      ◆


 私は車に乗っている。隣にいる男性の背広は知っている。地味な灰色で、いかにも安っぽい。

 腕時計だけはまとも。時刻は、十六時四十四分、日付は七日で、曜日は水曜日。

「大丈夫そうだな」

 男の人が言う。不思議とはっきり聞こえた。

 私はその彼に何かを言う。男の人は真面目な顔で、運転席の警官に何かを言う。

 車が加速する。

 すぐ左側を、軽乗用車が並びそうになるが、こちらが早い。

 ダメ!

 信号は青。

 なのに、赤のはずの右手から、大型トレーラーが突っ込んでくる。

 かなりの速度。避けるのは無理。

 衝突する。

 大型トレーラーが私の乗るパトカーを轢き潰し……。


     ◆


 悲鳴が出そうになることで、夢から覚めた。

 鳥の鳴き声が聞こえる。私の部屋の、私のベッドの上に、私はいる。

 首をひねってデジタル時計をチェック。

 五月七日、水曜日。時刻は六時五十一分。

 慌てて起き上がる。六時半にアラームをセットしていたのに、私、止めて寝ちゃったのか。

 ドアがノックされる。

 レイカ、起きてる? その母親の声に応えながら、私はベッドを降りて、もう一度、時計を見た。

 七日の、水曜日。

 どこかで見た光景。

 思い出せない。

 夢の中でのこと?

 もう一回、ドアがノックされる。

 起きてるよ! と言いながら、私は今度こそドアに駆け寄った。


     ◆


 学校の授業が終わり、私は友達とは駅で別れて、自宅の最寄駅で電車を降りた。

 改札を抜けて、歩いて住宅地の方へ向かう。駅から家まで、歩いて三十分だ。

 駅前こそ商店がいくつもあるけど、そこを離れるとこの時間帯は閑散としている。

「シドミ・レイカさんですか?」

 いきなり、声をかけられて、私は俯いていた顔を上げた。

 ずっと何かが頭の隅に引っかかっていて、それを検証していたので、周りを見ていなかった。目をつむっても帰れるほど、馴染んだ場所でもある。

 声をかけてきたのは長身の男性で、髪の毛が茶色い。染めているようではない、自然な色だ。

 瞳は青。肌は少し白い。イントネーションからして、北欧か、ロシアあたりの出身かもしれない。

 しかし、その背広が異質に見えた。真っ黒で、光を吸収しそう、と変な連想が生まれた。

「はい、そうですけど……」

 私がそう答えた時、その男性は目の前に詰め寄っていて、いきなり私の腕を掴んできた。

 声を上げる前に、腕の痛みに息が詰まり、乱暴に引きずられている。足がもつれそうになる。

 唐突に近くでパトカーのサイレンが鳴った。

 黒い背広の男は舌打ちをする。その時には私と男のすぐ横に、やはり真っ黒いセダンが並んできている。

 連れ去られる!

 そう思った時、本物のパトカーがすぐそばの四つ角を曲がってやってきた。

 黒い背広の男が私を離し、一人で車に乗り、そのまま黒いセダンは走り去った。

 私は掴まれていた腕を押さえながら、立ち尽くし、次にはすぐ横にセダンと入れ替わるように停止したパトカーを見ていた。

 窓が開く。「大丈夫か?」と聞いてくるのは、見覚えのある男性。

 少し伸びた髭も、灰色の背広も、高級腕時計も、知っている。

「何が起こっているか、伝える必要がある、シドミ・レイカさん」

「え? え?」

「乗るか? 乗らないか?」

 さっきの今では、その質問への答えは決まっている。不審な車より、パトカーの方が安全だ。

 私はパトカーの後部座席に乗り、背広の男の人の横でシートベルトを締めた。パトカーはもう走り始めている。

 運転席の警官の人も知っている。目元だけ。

 目元。

 そう、夢で見たんだ。

「君は予知夢を見たと思う」

 いきなり、隣の男の人が言った。

「それは我々としても予想外だったが、嬉しい誤算でもある」

「はぁ」

 他になんて言えるだろう。予知夢? 嬉しい誤算?

 パトカーは私の家とは違う方向へ走っている。大通りへ出て、片側二車線の道路。私はこれも知っている。

 なんで思い出さなかったんだろう。近所の光景じゃないか。夢の中でも気づけたはずだ。

 反射的に、私は男の人の高級腕時計を見た。

 十六時四十五分、七日、水曜日。

「あの、夢で、事故が」

 私がそう言う時、もう交差点は見えてきている。すぐ横に、左折レーンに軽乗用車が入っていき、並びかけている。

 信号は青。対向車で右折する車はない。

 もう一度、時計を見る。

 十六時四十六分。

「それは知っている」

 背広の男の人が、急に嬉しそうに言った。

 私が声を発する間もない。

 運転席の警官がハンドルを小刻みに切る。パトカーの後ろが右に小さく、次に大きく左に振られる。

 そして、左側の軽乗用車に接触した。

 私は悲鳴も出ないまま、手を握りしめている。

 もう交差点に入った。

 案の定、右から大型トレーラーが高速で突っ込んでくる。

 その一瞬、目の前で現実の光景が二重になり、三重になり、さらに無数に分かれるのを私は見た。

 パトカーが急加速して大型トレーラーの前に飛び出すが、そこから先ほどの接触で生じた反動を利用してほとんどドリフトしていく。

 トレーラーの目と鼻の先を回り込むように、パトカーがすり抜けた。

 次には物凄い音を立てて、大型トレーラーが横転した。

 横滑りで神業を成したパトカーも停車している。周りの車から、次々と人が降りてきて、騒然となった。

 私は恐る恐る、後部ガラス越しに、交差点を見た。

 パトカーの横にいた軽乗用車は、中途半端な位置で停車し、トレーラーと衝突していない。

 背広の男の人がなんでもないように「このパトカーは借り物だぞ」と言うのに、警官の人が「人命優先です」と気安く答えている。

 まだぼんやりしている私に、「君の不運には同情する」と背広の男性が笑みを向けてきた。

 その手元の腕時計は十六時四十八分になっている。


     ◆


 私は大学に入学して、それから初めてその人と会うことができた。

 周りから見ると新宿御苑の何かの施設にしか見えない建物で、案の定、地下にこそその本体がある。

 部屋に入ると、白を基調にしたその真ん中で、制服を着た女の子が一人がけのソファに座っている。

「おはようございます、カリン捜査官」

 私はそう言って直立するけど、女の子は平然と、泰然と微笑んでいる。

 その口から、澄んだ声が流れ出してくる。理知的で、しかしどこか無邪気な響き方をする声。

「レイカ、あなたが私の予知夢を共感して、もう三年は過ぎたわね」

 私が高校生の時に見た予知夢は、全て目の前の少女、シンウチ・カリンの見た予知夢だった。

 私に予知夢をみる力はない。

 ただ、他人と共感できる。それも本来は不可能なほど、深く。

 超深層共感覚、などと今は呼ばれている。

 私はゆっくりと空いているソファに座る。

「こうするのがお約束よね」

 言いながら、カリンが鏡を差し出す。

「あなたはやっと、現実に戻ってきたわね」

 強烈な既視感。そして違和感。

 私は目の前の鏡を手に取った。

 そこに映るのは幼さの残る、しかしもう子どもではない女性の顔。

 私はそっと鏡を返し、姿勢を整えた。

「今日はカリン捜査官の見た夢を、共有するように指示されています」

 良いわ、とカリンは目を伏せた。

 私の脳裏に、無数の映像が瞬き始める。

 超能力を駆使する非公式の国家組織。

 三年前の私は、こんな自分を想像もしてなかった。

 予知された未来に、今、私はいる。

 あるいは、予知された未来の近似値の世界に。



(続く)

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