第3話 数学者は怯えながら道をたどる 4

 少女は窓の外をじっと見ている。何を見ているのかは定かではない。外の風景かもしれないし、窓ガラスに尾を引いている雨粒かもしれないし、あるいは別の何かかもしれなかった。


 ただその横顔があまりに端正で、そこに掛かる亜麻色の髪と、遠くを見つめる黒く澄んだ瞳があまりにも美しかったので数渡は稚拙な妄想を続けられなくなってしまった。


 数渡は数秒間少女を凝視した後、たとえ周りに人がいなかったとしても、人目をはばからない自分の行為を恥じることとなった。そこで数渡はプラットホームで思いついた質問を少女に投げかけてみることにした。投げかけてみることにしたものの、それは数渡にとって至難の業だった。先ほど数渡が投げかけた問いは全て答えが返ってこなかった。それを考えると、彼の唇は鉛のように重くなった。また、彼の心臓はいかれたメトロノームのようになった。そうして数渡は何度も戸惑いながら、一つの質問を口にした。


「君は、数学が好きなのか?」


 しばらくの間、少女は黙っていた。黙って、窓の外の雨に震える街を見つめていた。そして彼女は口を開いた。


「好きよ。」


 彼女の冷徹とも言えるほどに落ち着いた声に数渡はドキリとした。それから一呼吸おいて、警戒する野生の猫でも相手にしているかのように慎重に次の質問をする。


「どうして?」


 数渡の問いを聞いて少女は数渡の方に顔を向けた。たまらず数渡は少女から目線を外す。


「僕は、数学が嫌いだ。数学は、なんというか、残酷だ。正解以外のものは全て許されない。最初から答えが決まってて、そこに自分の考えが入り込む余地がない。だから僕は数学を好きになれないし、好きだという人の気持ちがわからないんだ。」


そこで数渡は伏せていた顔を上げて言った。


「どうして君は数学が好きなんだ?」


「どうして・・・」


少女はつぶやくように繰り返した。そして数渡の目を見て言った。


「数学は残酷だから。だから好き。」


 数学は残酷だから。だから好き。数渡は頭の中で少女の言葉を

り返した。


「よくわからない。」


 数渡は正直に言った。一体彼女は何を言っているのだろう。少女は再び窓の外に顔を向けた。


「数学は残酷よ。たくさんの人の命を奪ってきた。たくさん血が流れた。でも同時に多くの人の命を救った。奪った数よりもたくさん。」


「神様みたいだ。」


「そう、神様のよう。」


「ヒトにも似てる。」


「ヒトとは違うわ。」


「似てると思うけど・・・」


「数学はヒトほど残酷でもないし、ヒトほど優しくない。」


 数渡には少女の言わんとすることが今一よく分からなかった。数学は多くの人の命を奪った。そしてそれより多くの人の命を救った。それは、数学が戦場などでも頻繁に使われていたことを言っているのだろうか。ナポレオンが大砲戦術に数学を活かしたとかそういうような。しかし、だからどうしたというんだ。今、自分が訊いているのは、どうして数学が好きなのか、だ。その理由は聞けば聞くほどわからなくなる一方だ。


「君が言ってること、うまく理解できない。」


数渡は正直に言う。


「つまり、数学に感情はないわ。」


「確かに数学に感情はない。でも感情がないから数学が好きというのはよく分からない。僕の周りにも数学が好きな人はいる。計算が楽しいとか、答えが決まってるから楽だとかそういう理由でね。そういう理由はある程度は納得できる。だけどその残酷だからとか、感情がないからとかそんな理由で数学が好きという人は初めて見た。」


「おかしい?」


 少女の言葉から感情は読み取れなかったが、それはまるで数渡を試しているようだった。


「おかしい、とは思わない。」


 数渡はそう言った。嘘をついたわけではない。少し変わった考え方だとは思うが、おかしいとは思わない。


「数学には感情がない、だから好き。」


 少女は窓の方に顔を向けたまま、自分で確認するようにつぶやいた。


「感情がないから好き、か。なんだか君に合ってるような気がするよ。」


 二人の間に沈黙が漂う。数渡は今言った事を後悔した。今のは言うべきではなかった。たとえ少女がはたから見て感情がないように見えたとしても、感情がないことが「合っている」などと言われれば嬉しくないに決まってる。


 一旦落ち着いていた数渡の心臓は再びおかしなリズムを刻み始めた。謝るべきだろうか、数渡は考えた。きっと謝るべきなんだろう。だけど、謝罪の言葉が思い浮かばない。


「そう、私に合ってる。」


 少女は抑揚のない口調でそう言った。数渡は呆気に取られて少女を見た。少女はじっと数渡を見ていた。感情がないのが合ってる、そんなことを肯定する人間がこの世にいるだろうか?しかし彼女の黒い瞳は言っていることに嘘がないと静かに語っていた。

 

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