第3話 数学者は怯えながら道をたどる 3

 数渡は一段、また一段と階段を上った。数渡の履いている汚れたスニーカーでは、少女の革靴のような心地よい音は出なかった。その代わりに、スニーカーが雨で湿った床と擦れ合って、キーキーと不快な音を出す。数渡は階段を上る途中、何度も引き返そうかと思った。やっとの思いで彼が上り切ると、やはりそこにもいつものような人影は見当たらない。盲導鈴の音だけがやけに大きく構内に響いていた。


 数渡は改札の奥に少女の姿を見た。じっとこっちを見て動く気配がない。次に数渡は顔を上げ、電車の時刻表を見る。いつもならば、到着駅と出発時刻、それから乗り場の番号が羅列されているはずなのに、今日はたった一つの表示しか載せられていなかった。

 

 少女はまたもや数渡に背を向け、一人で行ってしまった。数渡は駅員のいない改札を無断で抜けることに一瞬罪悪感を覚えたが、迷わず少女についていった。案の定、改札口は機能していないようだ。少女についていった先は五番線のプラットホームだった。


「どこへ連れていくつもりなんだ」


 数渡の問いに少女は答えなかった。まるで二人の間に見えない壁が存在して、数渡の声を遮っているかのようだ。少女はただ黙って前を見つめ、電車が来るのを待っている。数渡は腕時計で時間を確認した。


 四時二十五分。電車が来るまでまだ六分もある。数渡はどうしようもなく絶望的な気持ちになった。何か少女と話したかった。数渡はこんなにも人との沈黙に耐えられないと感じたのは初めてだった。


 まるで今にも大きな波にさらわれそうになっているのに、体をピクリとも動かせないような気持ちだ。数渡は必死に考えていた。何を質問したら答えが返ってくるのだろう。聞きたいことはたくさんあった。彼女がどこの誰であるかとか、名前は何というのかとか。ただ、数渡が思い浮かべるどの質問をしても少女は沈黙以外の答えを返してくれないような気がした。世界で一番沈黙が似合うといったこの少女は、一体何に興味を持つのだろうか。そうして考えている内に、初めて少女と教室で出会った時に、数渡が少女に尋ねられたことを思い出した。


 時刻は午後四時三十一分となった。アナウンスなどは一切なく時間通りに電車は来た。何の前触れもなく現れる電車というのは、思った以上に不気味なものだ。まるで獲物に接近する大蛇のようだ、と数渡は思った。不自然なほど静かに電車のドアが開いた。無論、降りてくる人は一人としていなかった。少女は悠々と電車の中に入っていくと、すぐ近くの向かい合わせになった四人掛けの席の窓側に座った。数渡は少女の斜め向かいの席に座る。すぐにドアは閉まり、電車は動き出した。


 ふと自分は蛇の腹の中に誘い込まれてしまったのかもしれないと、数渡は思った。

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