七 顔人参



「あ」


 口を開いて白人参が言った。いや、きっと人参ではないのだろう。葉の根本には薄紅色の花の蕾がひとつ膨らんでいるが、セリの仲間とは似ても似つかないふっくらと大きな蕾だ。


 しばしそいつと見つめ合い、シラは無言で立ち上がって温室を後にした。はじめは歩いていたが段々と走り出し、螺旋階段をバタバタ駆け下りて、賢者の研究室へノックもせずに飛び込む。


「先生! 先生!」

「……どうした、また野菜に青虫がいたか?」

「温室に……顔のある植物が! 薔薇の根本に、喋るんです、『あ』って!」


「ハルマラナだな」

 賢者はすぐにそう言った。


「ご存知なのですか」

「森に自生していたので、私が移植した」

「えっ」


 目を丸くして、ペンを置いて温室へ上がってゆく賢者の後を小走りに追いかける。今になって大騒ぎをしたことが恥ずかしくなってきたが、今更どうしようもない。


 鉄枠の装飾が美しいガラスの戸を開けながら、賢者が言う。

「言い忘れていたが、あれだけは引き抜くのをやめておきなさい。鼓膜が破れる音量で絶叫する」

「かわいそうでしょう!」

 なんてことを言うんだ、と思ったシラが責めるように言うと、賢者は「そうか? 植物だぞ」と首を傾げた。


「妖精ではなく?」

「ああ。月の塔でエルフの子が山ほど栽培しているらしいが、君の気に入りのあの子供ではないかと思う」

「エーリュミルが?」


 話しているうちに顔人参の場所まで戻ってきた。賢者が「この葉の、独特の香りが」と言いながら屈んで手を伸ばすと、人参が小さな口をもぐもぐさせ、その指先に向かってプッと何か液体を吐きかけた。


「おっと」

 賢者が指を引っ込めて、さっと取り出した小瓶にその雫を垂らした。


「手に傷のある時は触れぬように。毒液だ」

 そう言って賢者がよくよく指先に傷がないか確認し、もう一度手を伸ばそうとするので腕を掴んで止める。


「怖がっていますよ」

「いや、違う。嫌われているのだ」

「わかっておられるのならやめなさい!」

 ハルマラナというらしい顔人参は、今や緑の葉をバサバサと揺らして必死に賢者を威嚇していた。


「ならば君が触れてみたまえ。葉に触れると、セージに似た独特の香りが手に移る。毒草でなければ料理に使えそうな香草風の香りだ、かいでみるといい」

「なんてことを……」


 とはいえその香りは確かめてみたかったので、シラは野良猫を触るようにそうっと下から手を伸ばしてみた。顔人参は近づいてくる指先をじいっと見つめ、もう少しで触れるという時、いきなり身動みじろぎすると大きく口を開けて人差し指の先端をぱくんと咥えた。


「えっ、咬んだ」

「歯があるのかね?」賢者が興味深そうに問う。

「……いえ、ありません。体温もないようです。ひんやりしていて……桃のような柔らかさだ」

「ふむ」


 頷いた賢者が手帳にさらさらと何か書いた。覗き込むと、シラの指を少し吸い始めた顔人参のスケッチだ。


「吸っているのですが」

「水は足りているはずだがね」

「あ!」


 会話に混ざるように顔人参が鳴いた。その隙に指を引っこ抜く。そしてふと出来心で、シラは作業台の上のポットから角砂糖をひとつ取り出し、指でつまんでそっと近づけてみた。顔人参は指と同じようにそれをじっと見て、口を開けるとかぶりつく。そしてぱちぱちと何度か瞬きすると、高い声で何やら長々と鳴き、無心で角砂糖をしゃぶり始めた。


「食べた……」

「食べたな」


 目を輝かせた師がさっと立ち上がり、自分も角砂糖を取って戻ってきた。

「ほら、これも食べなさい」


 一つ目の砂糖を食べ終わった顔人参に、ずいともう一つ近づける。そしてプッと透明な毒液を吐かれて、賢者は先程と別の小瓶にその毒液を採取した。


「……先生、この草に一体何をしたんですか」

「葉を掴んで引き抜いたらこうなった」

 毒液を浄化しながら賢者が言う。

「知能が高そうですね。やはり妖精なのでは?」

「可能性はあるが、ルールミルエルマルーシュは月の塔のハルマラナを『花』と呼んでいた。妖精がそう呼ぶならば植物に分類されるのではないかと考えたわけだが」

「彼が芋虫を『赤ちゃん』と呼んでいるのを聞いたことがありますが」

「ふむ、今一度研究を進めても良いやもしれぬ」


 そうして考え込んでしまった賢者をせっついて、妖精と植物の境界線について考えていることを垂れ流してもらったりした後は──彼の思考法を知ることができるのでかなり勉強になるのだ──この顔人参を発見したという森を案内してもらった。


 賢者の塔の周囲は俗に「賢者の森」、正式には「知恵の森」と呼ばれる深い森が広がっている。地底国家故に熊や猪などの危険な動物は生息していないが、鹿や狐、兎、蛇などは地上から持ち込まれ、野生化しているらしい。地面は苔に覆われていて比較的歩きやすい森ではあるが、シラ達は特に動きやすい服に着替えることもなく、黒いローブに裾を引きずる長さのマント姿でやってきていた。シラはマントの端を持ち上げて歩いていたが、賢者はそのままずるずる引きずっているため、木の葉や小枝をたくさんひっつけている。


「……先生、ゴミがたくさんついてますが」

「ああ、うん」


 賢者は地面に目を光らせてきょろきょろしながら、上の空で頷いた。次は外へ出る時用の服を準備してやろうと考えつつ、自分も周囲を見渡して人参に似た葉を探す。


「そこだ!」


 急に賢者が声を上げてシラは息を呑み、少し先の草むらがカサッと揺れた。そっと近づくと、小さな声で「……あっ」と鳴くのが聞こえる。


「我々は実に運が良い! これほど簡単に発見できることなどないぞ」

「静かにしてください、顔人参が怯えている」

「顔人参?」


 温室にいたものよりもひと回り小さな、こちらは白ではなくクリーム色の顔をした個体だ。よく似た別種かと思ったが、角砂糖を差し出すとやはり食べる。


「よし、採集するぞ」賢者が言った。「場所を変わりなさい、遮音分界を張る」

「絶対にだめです」


 シラはきっぱり首を振って、そして角砂糖をじっくり味わっている顔人参に話しかけた。


「そなた、塔へ来ないか」

「……あ?」

「そなたによく似た顔人参がいるのだ」

「……あぅむぃに」


 何か喋った。ような気がする。そうっと手を伸ばして柔らかな腐葉土を掘っても、顔人参は大人しくしていた。しかし細い根を切らぬよう丁寧に掘り出すと、途端に怯えた様子で鳴き始める。しかし声は小さく、勿論鼓膜も破れない。


「大丈夫、大丈夫だ。すぐにまた植えてやる」

 脱いだマントに包み込むと、顔人参は口を閉じて大人しくなった。後ろで見ていた賢者が「ほう、見事なものだな」と呟く。


「見てください、手がありますよ」

 マントをそっと捲って、人参のような太い根が小さく腕のように枝分かれしているのを見ていると、賢者が鷹揚に頷いた。


「そうだな。引き抜いた後にスケッチをしたら、散々毒液を吐かれた」

「先生……」


 この植物の研究は絶対に自分が主体となって進めようと心に決め、シラは顔人参をマントに包み直すと胸に抱え直した。人参が小さな声で「あ」と鳴き、指を近づけるとそれをじっと見て口に入れようとする。


「可愛い……」


 思わず呟くと、賢者が「そうか?」と奇妙なものを見る目になった。シラは思わず漏れた声を聞かれてしまって恥ずかしくなり、少し早足に塔への道を歩いた。


 そして息切れしながら温室まで戻り、抱いたクリーム顔人参を、植わっている白顔人参にそっと近づける。二組の黒い瞳がじっと見つめ合い、次の瞬間、一斉に高い声で騒がしく鳴き始めた。


「あーっ! あっ!」


 白顔人参が土の中から小さな腕を引っ張り出し、必死に手を伸ばしてクリーム顔人参に向かって鳴いた。隣に植えてやろうと土を堀ると、葉を振り回して何か主張している。


「もう少し近い方が良いのではないかね」

 賢者がぼそっと言った。頷いたシラがほとんどくっつくような場所に穴を掘り直し、そこにマントから出したクリーム顔人参を植えてやると、ふたつの個体は互いの葉を揺らして触れ合わせ、一層高い声で鳴き交わし始めた。


「……仲良くなった、と捉えて良いのでしょうか。威嚇ではなく」

 尋ねると、賢者は手帳に記録を取りながら「おそらく」と呟いた。

「少し様子を見るぞ。茶を淹れよう」

「私がやります」


 浄化の陣が縫い取られた作業手袋を外し、念のため両手をハンカチで丁寧に拭うと、作業台の隅に置かれた魔導湯沸かしで香草茶を淹れた。座って茶を飲みながら、葉を絡ませたままずっと何か話している顔人参達を見守る。


「ところで、星の方の研究はどうかね?」

 こちらも一息ついた賢者がふと思い出したように尋ねた。

「……あまり。星の瞬きを再現しようとしているのですが、点滅の具合をどうして良いのか悩ましくて」

「ふむ、頻度を決める回路の作り方ならば」

「いえ、そちらではなく──先生は、本物の地上の空を見たことがありますか?」


 そう問いかけると、賢者はきょとんとした顔になって手にしていたカップをそっと作業台の上に置いた。

「……君は、見たことがないのかね?」

「ええ。しかし国境へ行くことは神殿に禁じられてしまいましたから……術の完成まで、少なくとも十年はかかりそうですね」


 それまでは光の表現の幅を増やすことに専念しますと言うと、賢者は目を丸くしたままガタンと立ち上がった。


「行くぞ、シラ」

「……え?」

「国境へ行くぞ。明日の早朝、月の擬態馬車を呼ぶ」

「明後日にしてください」

 シラがすかさず言うと、賢者は首を傾げた。

「なぜだ? 何か予定があったか?」

「明日はアルモニカを教えていただく約束です、先生」


 それだけは絶対に譲れないと言うと、賢者は少しだけ拍子抜けした顔をしてから、にやりと楽しげに笑った。


「好奇心に忠実で宜しい。では明後日に出立だ。用意をしておきなさい」





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