六 音色



 月の塔から帰ってきて丁度ひと月が経ったその日のこと、何か聞いたことのない楽器の音が聞こえて、シラはその音色を辿りながら灰色の塔の中を歩いていた。音はシラの部屋の上、賢者の私室がある階から聞こえてくるが、その辺りはまだ中を見たことのない部屋が多く、音からして何か大型の楽器に違いないが、そんなものが置いてある部屋に心当たりがなかったのだ。


 彼は二十三階の回廊を半周したところで、その部屋を見つけた。曲の切れ目を待ってノックすると、無気力な声で「どうぞ」と返事がある。


「……ピアノ、ですか?」

「ああ」


 ぼそりと賢者が答えた。焦げ茶色の木で作られた大きな楽器の前に座っている。その手元には黒檀とハイイロジカの角で作られた黒と淡灰色の美しい鍵盤が並んでいた。海の向こう、スシュネール大陸の楽器だったはずだ。


「現地の言葉ではピラカという。リオーテ=ヴァラ西部の打弦楽器の中でも特に大型のものだ」

「初めて見ました。魔法も使わず、ひとりでこんなに複雑な音を出せるなんて」

「指の数だけ音が出せるからな。まあ、十の音を一度に出すことはまずないが」

「演奏の技量でしょうか、三十人の楽団で演奏するくらい多彩に感じます」


「……それは光栄だ」

 賢者がそっぽを向いて小さな声で言った。

「どこで学んだのですか?」

「生家に教師が来ていた」

 なるほど、確かに王家ならば教養として他国の民族楽器を学ぶこともあるだろう。


「歌うならば、伴奏して差し上げよう」

 居心地悪そうに賢者が言って、シラも師の前で歌って見せるのは少し嫌だったので首を振った。

「……いえ、それよりピアノを教えていただけませんか」


 頼んではみたが、恥ずかしそうにしているので断られるだろうか。シラがそう考えていると、以外にも賢者はうんと首を縦に振った。

「構わぬが、それよりも君に向いた楽器がある」

 賢者はそう言って立ち上がり、部屋の反対側にある書き物机ほど大きさの箱型の楽器の蓋を開けた。中には瑠璃色のガラスの碗をたくさん重ねて棒に突き刺したようなものが収められている。


「これは?」

玻璃の竪琴アルモニカ。水で奏でるガラバの古楽器」


 賢者がそう言って、木製の台の淵に嵌め込まれた魔石に触れた。石がすうっと灰色に染まった瞬間、箱の底に置かれたこちらは透明なガラスの盆にコポコポと水が湧いて、瑠璃色の碗の縁が少しだけ水面に触れた。それを確認した賢者が、もうひとつの魔石に触れる。すると重ねられた碗が緩やかに回転を始め、芯棒に何か仕掛けがあるのか、内側が光を孕んで青くゆらゆらと幻想的な光を放ち始める。


 それはどうやら、回転するガラスの縁にそっと指を触れることで鳴らす楽器であるらしい。硬質できららかで、けれど風が吹くようにすうっと鳴ってすうっと消える、妖精の国から響いてくるような音がした。賢者は十本の長い指を素早く自由に滑らせ、夜の湖で精霊が踊る古典的な曲を巧みに奏でた。


「……風の竪琴の音に似ているだろう」

 賢者が言った。こくんと小さく頷くと、師は「これならば魔力の消費はごく僅かだ」と肩を竦める。

「……これを、教えてくださるのですか? 私は音楽ではなく、学問の弟子なのに」

「学問ではないが教養ではあり、そして楽器の演奏を習得するというものまた、ひとつの知識を得ることだ」


 少し遠慮して俯いたシラに、賢者が言った。

「教養は心を豊かにし、経験はいずれどこかで繋がって、深い叡智となる。アトラスタルという人間としての私は……まあ書物と書架、書庫に関連しない大半のことに無関心だが、賢者としての私は教えを乞う者を決して拒まぬ。我々はその叡智を誰にも平等に分け与えるからこそ、何にも縛られず好きなだけ研究に明け暮れることができるのだ」


「……はい、先生」

 シラが神妙に頷くと、賢者はまた少し居心地悪そうな顔になって「まあ、楽器くらい個人的に教えてやる」と言う。この人はどうやら裏表が激しいというか、「賢者様」として仕事をしている気分の時はものすごくしっかりしていて頼りになるのに、私的な時間には言動も雰囲気もすっかり気が抜けてしまうようだということが、シラにも段々とわかってきた。鷲族の誰かからもらったのだというウサギ柄の寝巻きを着て歩いていた時は流石に呆れたが、こちらに干渉してこない無気力な人柄は、一緒に暮らすにはかなり気楽だった。


「それで、今から弾くかね?」賢者が尋ねた。

「いえ。そろそろ昼食の準備をしますから、明日にでも」

 心惹かれたが、今始めればあっという間に熱中して食事を忘れてしまうに違いないので、渋々断った。


「そうか。たまには私が作ろう」

「いえ、結構です」


 それが昼食のことだと気づいてすぐに首を振る。この食に関心のない賢者が作れる料理はただひとつ。刻んだ材料を全てまとめて鍋に入れ、水と塩を入れて火が通るまで煮込む。それだけだ。スープなのかシチューなのかよくわからない薄味のそれは、不味くはないが美味くもない。よほど体調が悪いのでもない限り、食事当番を代わってもらうことはないだろう。


 塔には最新式の調理器具が揃っているのに、鍋ひとつしか使わないなんて信じられない。シラはそう思いながら階下へ降りて厨房の扉を開け、魔導式の保冷棚から下味をつけておいた鶏肉を取り出した。こうして前の日から塩と香草をまぶしておけばオーブンに放り込むだけでいいので、楽なのだ。あとはスープを多めに作って、夕食と明日の朝食もそれで済ませよう。今日の午後は温室で過ごす予定なので、夕食の準備の時間はできるだけ短縮したい。


 夕の主菜には確か魚の油漬けの瓶詰めがあったはずだと考えながら肉を焼き上げ、台車に乗せて隣の食堂に運んでゆくと、並べられた皿を見た賢者が「凄いな」と呟いた。


「毎日そう仰いますが、先生もあれだけ薬の調合を手早くこなすのですから、本来はできるはずですよ」

「やる気がな……起きない」

「そうですか」

「しかしいつまでも君にばかり作らせるのも、それはそれで」

「調理を分担するより、片付けを全てやっていただける方がありがたいのですが」

「それはだめだ。君の病が悪化する」

「そうですか……」


 残念なことに後片付けは今まで通り半分ずつになってしまったが、まあそれでも弟子入りした身で家事を師と分担しているのは恵まれている方か、とシラは思った。歴史書でも小説でも、魔術師や職人に弟子入りした子供達はみな師匠の仕事の助手を務めるだけでなく、毎朝早く起きて掃除をしたり買い物に行ったりと下働きのようなことまでさせられている様子だ。いくら師であっても学問と関わりのない生活面で偉そうにされたら、シラは怒って反抗してしまう確信があったので、アトラスタルがそんな人でなくて良かったと心底思う。


 昼食の後は一度研究室に寄り、道具一式を抱えて屋上の温室へ向かった。古風な石造りの塔に似合わぬガラス張りのその部屋は月の塔の温室と似たような仕組みになっているらしく、植物の魔力で温度や湿度が管理され、自動で散水までされるようになっていた。時々間引きや剪定をする以外の世話はいらないし、温室故に毛虫もいない。最高の環境だ。


 好きに植え替えをしていいと与えられた区画に向かうと手袋をして、さてどこから始めようかと植生を観察する。薔薇は既に何種類か植わっていたのでその付近に、もう少し隙間を作りたい。特定の区画の薬草以外は抜いてもいいと言われていたので、しゃがみ込んで伸び放題の蔓草をどかそうと手を伸ばした。


「あ……」


 シラの声ではない。目の前の花壇から話し声のようなものが聞こえて、硬直した。声の主を探す。ノームか何かが紛れ込んだのだろうか。いや、自然の森でないこの場所に、そんなものがいるはずはない。まさか……虫ではなかろうな?


「あっ」


 また聞こえた。近い。


「何だ、何がいる?」

「あ」


 いた。


 いや、あった。


 薔薇の木の根元に、白い人参のような植物が生えている。繊細な造形の柔らかそうな葉を持ち、多肉質な太い根が少しだけ地面から顔を出して──そう、「顔を出して」いるのだ。黒くて丸い目がふたつ、切れ目が入ったような小さな口がひとつ。





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