四 猫の応接間



「あ、ヴァロ様! いらっしゃい!」右側の門番がこちらを見て言った。

「こんにちは!」と左側。

「……こんにちは」


 抑揚のない声で賢者が返した。ヴァロ様という呼び名は、おそらくここが月の塔であることを考えると、魔法名だろう。塔に認められた魔術師や魔法使いに与えられる名で、この書架の賢者は誰がどう見ても優れた術者である。彼が右手を差し出して人差し指に嵌まっている指輪を見せると、右側の方の門番の青年がそれをひょいと覗き込み、色鮮やかな青い瞳をすっと細めて指輪の紋様か何かを見つめた。


「──はい、確認しました」


 青年は顔を上げるなりにっこりと賢者に笑いかける。一瞬だけ別人のように鋭い表情になった気がしたが、幻だったかのように「もうちょっと丁寧に磨いた方がいいですよ、指輪」とか言っている。


「お弟子さんの身元はヴァロ様が保証してくださいますね?」


 左側の門番の女性が質問すると、賢者が「誓おう」と言う。すると二人が左右ぴったり揃った動作で、扉のない大きなアーチ状の入り口の縁に手を当てた。すると空中でぴかりと白く魔法陣が光って、その紋様がするするとほどけるように消えてゆく。シラはすっかり感動してその光景に見惚れていたが、賢者がひらりとマントを翻してその中へ入っていったので後に続いた。


「うわ、すごい変わった目してますね!」


 と、前を通り過ぎるシラに右側の門番が声をかけた。返事に困って足を止めると顔を近づけてまじまじと見上げ、小さな声で囁くように「わあ、よく見ると動いてる……」と言った。

「……おい」


「ファラフィル、何やってるのよ」

 すると左側がたしなめてくれた。ほっとして賢者の後を追いかけようと身を引こうとして、袖を掴まれていることに気づく。

「見てよラプフェル、この瞳の黒色、ようく見るとちょっと動いていて面白いよ。夜明け森を霧が流れてゆくみたいな動き方」

「えっ、本当?」

 青と赤茶の瞳がじいっとこちらを見つめ、赤茶の方が「ねえ、もうちょっと屈んでよ」と言った。


「せ、先生」

「連れてゆくぞ」

 賢者が腕を掴んで、早足に連れ出してくれた。妖精達が「まだ見たい!」と騒いでいたが、仕事を放り出す気はないらしく追いかけてはこなかった。


「離れてしまえばこちらのものだ」

 磨き上げられた石の廊下を歩きながら賢者が言った。風合いにあたたかみのある白亜の神殿と違って、巨大な月青石げっせいせきの石柱から造られている月の塔は青白い透明感があり、反響する足音もどこか楽器を思わせる硬質で不思議な響き方をする。


「中央昇降機へ向かう」

「昇降機があるのですか」

 風の魔術で籠を上下させる、主に国境で輸出入の荷を運ぶために使われている魔導機械だ。言われてみれば確かに、これだけの高さがあれば階段で上るのは大変だ。


「賢者の塔にもある。人は乗れぬ大きさだが、書籍や食糧品を運ぶのには重宝する」

「どこに」

「入って左の書庫の奥」


 帰ったら見てみようと思って、あの図書館のような灰色の塔が自分の「帰る場所」になったことにシラはうっとりした。あの場所で寝起きして、好きなだけ本を読んで、薔薇の研究をする。そして、こっそりとこの月の塔へ通って、エルフ語を覚えたら──


 大きく開けた場所へ出たので目の前に意識を戻すと、そこは高い高い天まで続くような吹き抜けだった。見上げると各階への入り口だろうか、灯された魔石の明かりがいくつもいくつも、星のように輝いている。


 カシャンと軽い音を立てて、銀色の大きな鳥籠のような昇降機の扉を開ける。中には美しい灰色のベルベットで仕立てられたソファが置いてあり、天井にはランタンが吊るされている。


「見ていなさい」

 戸を開けてくれた賢者がそう言って、自分は扉の内側の銀の板へ指を滑らせた。魔導鍵によく似た複雑な魔法陣へ魔力を流すと、周囲を静かな風が取り巻いて、ふわりと籠が浮き上がる。


「階数指定盤だ。これで上がれる最上階まで行くので、座って──そこまでしなくとも、三重の安全装置が付いているので落下の危険はない」

 ソファーに座り込んで手摺りにしがみついているシラを見て賢者が言った。しかし独特の浮遊感が恐ろしく、とても手は離せそうもない。


「……それが全て発現しなかったとしても、私がいれば大丈夫だ」

 シラの様子をじっと観察しながら、賢者が探り探り言った。

「浮遊感に慣れぬだけですので、問題ありません」

「そうか」


 ならいいか、という感じで賢者が鞄から水筒を取り出し、茶を一口飲んだ。小さな声で「確かに、君の淹れたものの方が上等やもしれぬ。冷めると渋い」と言う。

「冷めなくても渋いでしょう」

「着くぞ」


 チリンと小さな風鈴の音が鳴って、昇降機が止まった。籠と床の間の細く深い隙間を前に躊躇していると、先に廊下へ降りていた賢者が「怖いかね」と片手を差し出した。


「問題ありません」


 本当は掴まりたかったが、それではあまりに情けないので心を決めて飛び込んだ。踏み切った勢いで浮遊している籠がふわりと揺れ、肝が冷える。


「白の区画はこの上だ。猫の談話室を押さえてある」

「猫?」

「部屋の名だ。意味はない」


 賢者がそう言いながら右の手の甲に魔法陣を描き、伝令鳥に小さく何か吹き込んで飛び立たせた。どこへやったのだろうと考えながら細い廊下を進むと、曲がり角の向こうに華奢な水晶の螺旋階段が現れた。窓から差し込む夕陽に照らされて、それだけで美術品のような美しさだ。迷いなくそちらへ向かってゆく賢者を追いかけて、透明な石にそっと足を乗せたその時だった。


「あっ」


 小さく声を上げたシラに、賢者が「どうした」と言って振り返った。


「今、上の階から……」


 子供の顔がこちらを覗いているのが見えた。目が合うとすぐに引っ込んでしまったが、あの星屑を散りばめたような光は──


「たぶん……エーリュミルです」

「エルフの子か。珍しいな、人間の前に姿を見せるとは」

 幸運だったな、と野生の鳥か何かについて話すように賢者が言った。

「……話せるでしょうか」

「難しいだろうな、妖精の子供は臆病だ」


 それを聞いてシラは少し落胆したが、ここで肩を落としてしまうのは自尊心が許さなかったので、なんでもないふりをして「そうですか」と前を向いた。少し早足になって賢者の隣に並び、階段の上、小さく猫の絵が描かれた扉があった。「ここですね?」と尋ねると賢者が無言で頷く。


 コン、コン、コン。


 つい癖で神殿式のノックをしてしまった。中からは返事がなかったので、そっと取手を押してみる。すると開けて正面のソファに座ったルールルーがじいっとこちらを見つめていたので、びくりとして見つめ返すと、エルフは小さな声で「どうしたの、花冠? 入っておいで」と言った。


「……返事をしてくださいよ」

「したよ」

 ルールルーが囁いた、きっと扉越しにその声量で返答したのだろう。彼が話しながらしきりに膝の上の何かを撫でているので近寄ってみると、丸くなって熟睡している白い猫だった。


「……なぜ猫が」

「この部屋が気に入っているようだね」

「はあ」


 だから「猫の談話室」なのかと考えて振り返ると、賢者がいない。部屋の外まで出て廊下を見回したが、影も形もなかった。


「……賢者様を知りませんか」

 ルールルーに尋ねると、彼は穏やかな声で「どこかへ行ったよ」と言った。


「どこかへ……」

「花冠が僕と遊んでいる間、暇だと思ったのではないかな」

「……私は、これから貴方と遊ぶのですか?」

「違うの?」

 妖精が首を傾げ、シラも困惑して沈黙した。


「……行きたいかと尋ねられたので、行きたいと答えたのです」

 困った末にそれだけ言ってみると、ルールルーは「それなら、遊びに来たのではないかな」と言った。


「そうなのでしょうか。というか、師は一体どこへ」

「今日は泊まってゆくと聞いているから、また明日にでも探せばいいよ」

「えっ」


 考えてもみなかったが、言われてみればもう夕暮れ時だ。訪れるどころか一晩過ごせるなんてと考えるとわくわくしてきて、シラはかたわらのエルフへ笑顔を向けた。


「楽しそうになった」


 ルールルーがそう言ってシラの頭を撫で、小さな声で「温室を見に行こうか」と言った。夢中で頷くと、彼はごく自然にシラの手を握って歩き出す。恥ずかしいからやめてほしいと思ったが、握られた手に妖精の光の粉が纏わりついてキラキラしているのを見ると、面白くてついそのままにしてしまった。





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