三 ふぃうる



 声をかけられて目を開けると、白い馬車の天幕の外側が赤く染まっているのが見えた。どうやら夕暮れ時までぐっすり眠りこけていたらしく、すっきりした気分で起き上がる。すると賢者が荷物から水筒を取り出し、手渡してくれた。礼を言って飲むと毒かと思うような渋い茶で、反射的に吹き出しそうになった。


「……水から煮出しましたね?」

「ああ」


 何の悪気もなさそうに賢者が頷いた。これと、シラが淹れた茶の味をして「大差ない」と言っていたのならひどい屈辱だ。そう思ってもう一口茶をすすり、苦さに眉を寄せていたが、その時馬車が緩やかに速度を落として停止したので文句を言うのはやめておいた。到着したのかと周囲の音に耳を澄ましていると、御者台から「お目覚めですね」と麦藁色の頭が天幕の中に突っ込まれた。


「あと二時間かそこらですが、そろそろ用を済ましておきたいでしょう? 今ちょうど森の中なので、行ってきていいですよ。周囲に目もありませんし」

「……森の中で?」


 シラがきょとんとすると、商人顔のファロルも同じような表情で首を傾げた。


「ええ。その辺の繁みで、適当に」

「……そのへんの、しげみ」


 貴族生まれの神殿育ちが硬直し、助けを求めた王族生まれの師はゆったり頷いて、あくび混じりに森の中へ入っていってしまった。


「……我慢します」さっと顔を戻して言う。

「やめときなさい、体に悪いよ。塔に着いて早々駆け込むのも格好悪いし」とファロル。


 そう言われてしまうとどうしようもなく、シラは震えながら賢者が歩いていったのとは反対方向の森へ分け入った。慎重に周囲を見回して、ローブの裾を持ち上げかけ、首を振ってそっと元に戻し、そしてもう一度──


 少ししてふらふらと馬車へ戻ってくると、既に中で待っていた賢者が「顔色が悪いぞ」と言う。

「酔ったか?」

「外では、どうしても無理で……ファーリアスに教わった術で体内を浄化したら、魔力が」

「は?」


 賢者がぽかんとした顔をして、鞄を探ると拳ほどもある大きな魔石を取り出し、少し握って魔力を注ぎ足してからシラに手渡した。ありがたく受け取って両手で包み、じわりと漏れる力を体内へ浸透させる。


「……帰りは、頑張ってみたまえ。後で全身浄化してやるから」

 賢者がぽつりと言った。シラはそれに頷きながら、永久に帰りたくないなと内心思う。せっかく月の塔へ行けるのに、こんな苦行が待っていたなんて。異端審問より辛いかもしれない。


「かなり深刻だな……」

 賢者が言った。ファロルが「恥ずかしがり?」と尋ね、賢者が「潔癖症」と答える。


「おや、それはかわいそうに。お昼はそこに置いてますから、軽く食べておくといいですよ」

 青年が軽やかに言って頭を引っ込め、鞭ではなく「行くよ!」という掛け声がして馬車が走り始めた。心労に小さくため息をついていると、外から声がかけられる。


「追っ手の目がないのは確認してますから、この辺りで擬態を解きますけど……シラちゃん、見たい?」

「シラちゃん……」


 妙な呼び名にかなり気後れしながら、布の隙間から顔を出す。すると御者台のファロルは既に元の姿に戻っていて、話が違うじゃないかと目を瞬いた。


「ああ、違う違う。馬車の方だよ。賢者の塔に来た商人の馬車が月の塔にも立ち寄ったら怪しいでしょう? この辺で元の馬車に戻すからさ」

「元の馬車」


 元は違う意匠なのかと振り返った瞬間、ぞわっと魔法の気配が動いて、生成りの幌馬車が霧を払うように純白の箱馬車へ生まれ変わった。慌てて身を乗り出すと、扉には淡い灰色の塗料で三日月の紋章が描かれている。馬車を引いていた茶色の馬達も、いつの間にか輝くような白馬に変わっていた。


「危ないぞ」

 賢者が言った。はしゃいでいるのが恥ずかしくて頭を引っ込めたが、それでも尋ねずにはいられない。

「どうなっているんですか? 幌馬車だから後ろから乗り込んだし、布の感触もあったのに」

「擬態用の馬車なので、後ろにも扉があるんですよ。布の感触はほら、カーテンがついてるでしょ。床板を上げると座席も出せますけど、寝ながら行く方が楽かなと思って」


 返事は前から聞こえてきた。確かに振り返ると複雑な織り模様の白いカーテンが掛かっている。その縁に小さな魔石のビーズが縫い込まれているのに気づいて魔力を流すと、カーテンの星模様が一斉にチカチカと光を放った。


「うわ」

「あ、気づきました? 綺麗でしょう。僕もそれ大好き」


 ファロルが楽しげに言う。シラも「ええ!」と声を上げて同意したが、細い糸で縫われた魔法陣を夢中で解析していると、段々気持ちが悪くなってきて再びクッションの上に横たわった。


「酔ったな」

「はい……」


 のんびりパンとチーズを食べていた賢者が、匂いに気を使ったのか窓を開けながらそっと食べ物を紙袋へしまった。それを見て、昼を食べ損ねたことをようやく思い出す。


「ありゃ、でももうすぐ着きますよ」


 ファロルがそう言った通り、シラの吐き気が限界を迎える前に馬車は細い洞窟を抜け、窓の外に月の塔が見えた。鍾乳石と石筍が繋がった巨大な石の柱をくり抜いて造られたそれは、最上部が人工天の空の中へと消えており、文字通り天に届いている。目にするのは初めてではないが、それでもここまで来るのはおよそ十年ぶりだ。久しぶりに見ると、やはりその大きさに気圧される。立ち並ぶ純白の柱が美しい建築物でもあるのだが、それ以上にそのとてつもない大きさそのものが力となって、「彼」にしてみれば塵の一粒のように小さな人類の精神を圧倒せんと襲いかかってくるのだ。


 シラが壮大な光景を見てうっとりしている間に、馬車は塔の馬車回しへ滑るように入っていた。ファロルが「はい、到着!」と正面の窓から振り返って微笑み、ポケットへ手を突っ込むと「はぁ、着いたついた」と言いながら灰色の布帯を頭の後ろで縛り、目隠しをしている。そういえば「アオグ」を名乗った彼はその装束を身に纏っているものだと知っていたのに、ファロルがあまりに予想外な明るい性格をしていたので、彼がそれを外していたことに気づきもしなかった。


「──おかえりなさい!」


 とその時幼い子供の声がして、それを聞いたファロルがパッと顔を輝かせると御者台を飛び降りて走り出した。何事かと開いていた窓から覗けば、薬草の植えられた庭園の端に小さな人影がふたつ、手を繋いで立っている。少し背の高い方が真っ赤な髪をしていて、小さい方は金髪だ。


「ただいま、ミロル! フィルルと遊んでくれてたのかい?」

「うん、おさんぽしてた」


 ファロルは赤毛に青いワンピースの子供の頭を「ありがとうね」と撫で回し、金色の方の子供を抱き上げると、シラ達の方へ向かって声を張り上げた。


「見て! 僕の息子!!」


 賢者は真顔のまま返事をせず、シラもどうしたら良いのかわからなかったので、その場にじっととどまった。少しすると賢者が面倒そうにため息をついて馬車を降りたので、彼の背後についておそるおそる近寄る。ファロルがやたらキラキラした顔で笑って、腕の中の生き物を見せつけてきた。


「可愛いでしょう!」


 フェアリの子供?


 そう思った。抱えられた幼児は遠目に見ると二、三歳の容姿に思えたが、近くに寄ると生まれたてではないかという程度の身長しかなく、明らかに人間の子供より小さい。蜂蜜のような甘ったるい色の金髪に、ちょっと驚くくらい鮮烈な緑色の目をしている。


「賢者さまたちに、おなまえ言えるかな?」


 子供がいるような歳には見えないファロルが、聞いているだけで恥ずかしくなるような猫撫で声で息子に話しかけた。警戒した様子でこちらをじっと見ていた幼児はそれを聞いてパッと笑顔になり、すうっと大きく息を吸った。嫌な予感がした。


「──ふぃうる!!」


 嘘だろうと思うような大きな声で幼児が叫んだ。黒ずくめの二人がビクッとして、金髪の父親が甘い笑顔を浮かべる。


「上手に言えたねえ!」

「うん!!」


 緑の瞳のフィウルとやらは褒められて最高に気分が良くなったらしく、信じられないくらいよく通る高音でこの上なく楽しげに「きいろいおはなが咲きました〜」と歌い始めた。

「……陽気極まりないな」

 賢者がぼそっと言った。「きらきらお日さままぶしいね〜」と歌は続く。


「フィルルはね、おうたがね、とっても上手なのよ」

 陽気な子供とそう変わらないくらいの女の子が、賢者を見上げて自慢げに言った。こちらは宝石と見紛うような真紅の髪に、青緑色の瞳だ。二人ともどこか人間離れした派手な色彩を持っているのは、もしかして妖精の血の影響なのだろうか。


「……そうだな」

 子供は苦手だと全身に書いてある賢者がそう返した。ファロルが「ミロルはとっても賢いんだよね?」と話しかけると、大きな目をきらりとさせて「そうよ」と言う。


「ミロルはね、あたまのね、おひめさまだからね、とってもおりこうさんよ」

「そうだねえ」


 ファロルがうんうんと頷き、賢者がうんざりした顔で「馬車をありがとう」と言ってその場から逃げ出した。流石に失礼ではなかろうかと思ったが、取り残されても困るので師の後を追いかける。


「また帰りに!」


 ファロルが手を振ってきたので、振り返って会釈する。すると更に高く手を振り返してきたので、嫌だなあと思いながら胸の前で小さく手を振った。


「……鷲族の方にしては随分、その、明るい方でしたね」

 囁くように言うと、賢者は疲れたような声で「あやつらは皆ああだ」と言った。


「えっ」

「妖精混じりとは、まあそういうことだな」

「……そうなんですか」


 数多の伝承に歌われる神秘の守護者達の意外な真実にぽかんとしつつ、シラと賢者は塔の入り口の両端に立っている小さな灰装束の人影に一礼した。この人達も口を開けば底抜けに明るくなってしまうのだろうかと思うと、ちょっとがっかりした。





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