六 真夜中の訪問者



 祝祭が終わって八日。黒の刻を告げる静かな鐘の音と共に日付が変わって、学会の最終日になった。神殿の庭を歩く賢者様や妖精の姿を遠くから眺められる日々ももう終わりだと、ナーソリエルは湿ったため息をついて膝の上の本を閉じた。まだ完全に内容を理解したとは言い難いが、今夜はもう寝てしまおう。明日──いや、もう今日の朝か。いつもより少し早く起きればいい。


 しかし明かりを消そうとランタンに手を伸ばした時、ナーソリエルの部屋の扉を叩く者があった。ファラかマソイか今夜はどちらだろうと顔をしかめながら誰何すいかすると、聞き慣れない低い声がなんと「……書架の賢者」と名乗るではないか。


「……えっ?」


 流石に誰かの悪戯ではないかと少し怖くなりながら扉を細く開けると、光の透き通った高性能の魔導ランタンを持って立っていたのは、賢者アトラスタル本人だ。


「……え?」

「夜半にすまぬな。しかし、その必要があったのだと君もすぐに認めるようになる」


 無言で見上げたまま一歩下がると、当たり前のような顔で賢者が部屋に入ってくる。頭はまだ少し混乱していたが、茶でも淹れた方が良いのかと棚の方へ向き直ると、間髪入れずに「いや、結構」と言われる。


「あの」

「ああ、声は低く保ってくれたまえ。私が今宵ここに在ったと、隣室の住人に悟られぬよう」

「はい」


 ぼそぼそとそっけない話し声なのに、やたら先回りして言葉を遮ってくる。変わった人だなと思って、瞬きで先を促した。


「カイラーナの発表を受けて、彼に君の研究内容について少し質問したのだが、君にはこのようなものが必要ではないかと思ってね」


 丁寧に経緯を話すこともなく、いきなり賢者がマントの中から分厚い紙の包みを取り出した。彼が紐を解いて漂白されていない木綿紙をはらりと剥がすと、一冊の本が現れる。


「……これは」

「神典の改訂がなされたのは、最近で二十六年前だ。それに対し、いま君に差し上げたそれが刷られたのは三十二年前──神殿を出て月の塔へ行かんと涙ながらに決意した君には、そして『魔法陣と顕現陣の違い』に興味を持っている君には、もしや垂涎すいえんの一冊ではないかね? 違ったのならば、今宵の訪問は忘れていただくことになるのだが」

「トルムセージ──」

「月の塔と神殿が水面下で対立するようになって、千年経っていないのはご存知か? この国の誇る『世界最高の魔法陣』、つまり人工天は、月の塔に存在するが故に魔術であると言われているが、その実、厳密には、魔術と顕現術が混ざり合ったようなどちらともつかぬ紋様で描かれている。今は失われた様式の陣だが、再び月と星が手を取り合う時──そんな日が来れば、失われた名もなき文化が蘇ると、私は考えている」

「……失われた文化」

「賢者は賢者であって決して英雄ではないが、しかし太古から英雄に道を示すのが賢者の務めと、物語の姿を借りて語り継がれている。故に賢者は、怜悧な振る舞いの陰に英雄的な思考を秘めねばならぬと、私は思う。知らぬ道を示すことは誰にもできぬが故に。もっとも、考えるだけでうんざりするがね」


 にこりともせず好きなだけ語って、賢者はおずおずと礼を言うナーソリエルに少し肩を竦めると、別れの挨拶もせずにふらりと部屋を出て行った。ナーソリエルはそれをぽかんとして見送り、手の中の神典に視線を落として、明かりを灯すと寝台に腰掛けて表紙を開いた。





 そしてほとんど眠らぬまま迎えた次の日の朝、ナーソリエルは朝食の席で早速昨夜の件をマソイに報告した。皆が集う食堂だが、食卓であるが故に口元を隠して小さな声で会話をしていても、誰も不自然に思わないのだ。


「本当に? 賢者様にもらったの?」

「ああ。しかし……どうする?」

「どうするって?」

 食事の手を止めて、マソイが怪訝そうな顔をした。

「そなたも……噂を聞いたろう。今の私と不用意に関わると、そなたまで危険視されることになる。調べられて困るような態度は避けるべきだ」


 あれから賢者様が取り成してはくれたのだが、やはりナーソリエルと月の塔の魔術師が親しく話していたと、噂が少しずつ広がっていた。今のところそれだけでどうこうはなっていないが、流石にマソイとの「勉強会」には慎重になる必要がある。


「ああ、そんなことか。別に怖くないよ。私はこの研究を、神への冒涜だとは少しも思わない。悪くないことで裁かれるのを恐れて知る機会を退けるなんて、気の神官失格だろう?」マソイがあっけらかんと言った。

「……そうか。であればマソイ──」


 朝食を持ったトーラとアミラが歩いてくるのが見えて口をつぐんだ。マソイも同様だ。彼らを信用しないわけではないが、精神医療を学ぶトーラと教師を目指すアミラ、研究職以外を選んだ二人はこの件に関わらせないと、相談して決めていた。


「おはよう、マソイ。会えて良かった。あの、あのね……」


 トーラが向かいの席に座りながら、下を向いて指先をひねくり回した。ああ、「言う」気だなと思って、既に知っている自分は関係がないと食事に集中する。案の定、最近の彼女がナーソリエルに「トーラ」と呼ばれている理由について、話が始まった。


「何度もごまかしてごめんね。そういうことだから、ええと、もし、もし嫌でなければ、二人にもそう呼んでもらえれば嬉しいのだけれど……どうだろう?」

「へ?」


 話を聞いたマソイが丸く口を開けたままこてんと首を傾げた。それをアミラが嫌そうに眉を寄せて睨んでから、トーラに向き直ってにこっと笑う。


「もちろん私もそう呼ぶわ、トーラ。勇気がいったでしょうに、よく話してくれたわね。もしお部屋を移りたくなったら、ルタエには一緒に交渉してあげる。私が一緒の方が受け入れられやすいと思うから」

「……ありがとう、アミラ」

「ねえ、今度髪の編み合いっこをしましょうよ。神殿に入る前は、姉とよくそうやって遊んでいたの。ふふ、仲良しのトーラが女の子だったなんて嬉しい。気の同期は男の子ばっかりでちょっと気後れするなあって思っていたの」

「……うん」


 トーラが幸福そうに頬を染め、ナーソリエルは無気力な半眼でぼんやりそれを眺めた。彼にしてみれば親しげなアミラの態度はかなり鬱陶しかったが、どうやらトーラにはそれが嬉しいらしい。


「……つまり、男に恋をしたのか?」

 と、呆然とした顔のままのマソイがぽつりと間抜けな質問を投げた。トーラがぎょっとした顔をして、慌てて首を振る。

「まさか、恋だなんて。違うよ」


「……そなたは女性に恋をすることで初めて自分が男性であったと気づいたのか? まるで神話のようだな」

 ぼそっとナーソリエルがそう言うと、マソイは薄茶の瞳をぱちぱちとして緩やかに首を振る。

「いや、無論そうではないけれど……何を根拠に確信したものかと思って」

「確信なんてしていないよ。私は、君達にそれを証明できないように、私自身に対しても明確な証拠を提示できないから。けれど……ならば形として明確な男性の方へ全てを揃えようと努力するほど、心が悲鳴を上げる。理屈ではなく感情が、理由もわからないまま、何かが決定的に食い違っているのだと叫ぶんだ」

「ふうん……願望ではなく相違だと、どうしてそう思うように?」


 マソイの質問はナーソリエルも興味深かったので彼と並んで答えを待っていると、段々と険しい顔になっていたアミラが視線を鋭くしてピシャリと言った。

「尋ねる前に興味本位ってちゃんと宣言なさい、マソイ。失礼だし、まるで責めてるみたいよ」


「え? や、ごめん。つい面白くて……」マソイが少し背を丸めて言う。

「面白いじゃなくて、魅力的だっておっしゃい」とアミラ。

「同じことだろう?」とマソイ。

「全然違うわよ。これだから神殿の男は……恋をしなくたってね、女の子は誰だって『面白い』じゃなくて『素敵だ』と思われたいのよ。男の子にだけじゃないわ、女の子にもよ」

「……本当にそうか?」


 ナーソリエルは窓の外──淡い金の瞳を爛々とさせながら中庭の月桂樹に登ろうとしているハイロに目を遣って、ぽつりと漏らした。足を振り上げ、袖を捲り上げて一体何をと思えば、上の方にとてつもなく大きな蛾を見つけてしまって目を逸らす。フラノが下で待機しているので、まあ放っておいても危なくはないだろう。


「あ、ちょっとハイロ、何やってるのよ……」

 ナーソリエルの視線を追いかけたアミラが半分立ち上がって言うと、トーラがふふっと静かに笑った。

「変わった子だよね。この前も蝶を追いかけて森に入ろうとしていたのを、あの火の子に捕まえられて──」


「──ナシル」

 不意に特徴的な冷たい声が割り込み、四人揃って振り返った。ヴァーセルスが、何やら険しい顔をして立っている。


「何か」

「……研究塔へ。話があります」

「わかった」


 空の食器を持って立ち上がると、マソイ達が「行ってらっしゃい」と手を上げた。それに頷いて、無言で先導するヴァーセルスの後に続く。と、庭園の真ん中まで来たところで、彼が歩きながら小さな声で言った。

「……白の魔術師と、懇意にしているのですか」


 ああ、か。


「私個人は特には。あのエルフは生家の叔父の友人でしたので」

「何の話を?」

「……大きくなったねとか、歌を聴いたよとか」

「それだけ?」

「……まあ」


 その先を口に出すのを渋ると、ヴァーセルスは突然立ち止まってナーソリエルの肩に手を掛けた。ぎゅっと指先に力がこもる。

「話してください、ナシル」

 真剣を通り越してどこか切羽詰まった目を見て、戸惑いながら渋々口を開く。

「あとは、ひたすら……毛並みがどうとか言って、頭を撫で回されていた」


「そうですか……」

 どっと安堵したようにヴァーセルスが力を抜き、肩の手を離してナーソリエルの頭にひと呼吸の間だけそっと触れた。

「……ナシル、監察者の審問です。どうか、不利にならぬよう答えなさい」


 おや、そうきたか。


「魔術師と親しくしたからか? 魔術そのものは神殿の理想とは異なれど、異端ではないだろう」

「どうやら、それが変わりつつあるようだ。故にまずは、全面戦争となるに違いない月の塔よりも先に、内部の魔術傾倒者から裁くと──ナシル、魔術が嫌いなふりをなさい。妖精に一方的に近寄られ、困っていたところを賢者様に助けていただいたのだと言うのです。今だけで良いから」

「……いや、それは」

 首を振ると、ヴァーセルスは苦しそうに「ナシル、言うことを聞いて」と言った。


「その成り立ちと現代の作法を読み解けば、魔術を異端と定めるのはあまりに暴力的だ。私は、筋の通らぬ偏った思想に迎合はしない。神の恵みあって知り得た真実を自ら捻じ曲げてまで、安穏と生きることは望まぬ」

「──しかし私も、貴方が理不尽に責め立てられたり、排斥されたりするところは見たくありません」


「ヴァーセルス?」

 ナーソリエルは不審に思って片眉を上げた。彼はそんな感傷的なことを言うような男だっただろうか? もしや偽物か、何か術をかけられているとか──


「『ヴァスル』と。ナシル、私は今もあまり魔術が好きではありませんが……しかし、あれほど優しい歌を歌う貴方が善であると信じるものならば、信じてみても良いかもしれないと最近は思っているのです。今の貴方がひとり立ち向かったところで、その場で叩き潰されて終わりだ。どうか慎重に、狡猾になって」

「……努力はしよう」


 いや、らしくはないが……これは本気だろうな。ナーソリエルはごまかすように内心でそう呟くと目を逸らした。感情論でこちらを揺さぶろうとされるのはすこぶる苦手だが、今は不思議とあまり不愉快ではない。


「……しかし、なぜそこまで」

 訊けば、ふっと微かな笑みが返ってくる。

「あんな目で演奏を聴かれたら、少しは肩入れもしたくなります」

「あんな目」

「秋の祝祭のビスケットにクリームを添えられたファラみたいな」


 思わず絶句した。この顔はあまり表情が動かないはずなのだが、そこまでとんでもなく恥ずかしい表情をしていたのだろうか。今後は気をつけねばならぬと思って、ナーソリエルは苦虫を噛み潰した気分で顔をしかめた。




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