ロウザンノマ

オボロツキーヨ

君はロウザンノマを知っているかい?

 何故なぜ、わいが漢文で書かれた孫子の兵法をすらすら読めるのかと、上官たちが驚いていた。あれ以来、わいを見る目が変わった。一目おかれている。君まで、わいが帝国大学文学部を出たインテリゲンチャだと思っていたとは愉快だな。どうして漢文を読めるようになったのか知りたいかい。そうか、その前にわいの故郷の話を少しさせてくれよ。君はロウザンノマを知っているかい。え、知らないって。そりゃそうだよな。

 

 青森県の下北半島の東端、尻屋崎しりやざきにあるわいの村、東通ひがしどおり村はとにかく風の強い所でね。沖に向かって風が吹くと船が流されて、危なくてマス釣りもできない。ある日、網袋に弁当箱を入れて植林しょくりんの仕事へ行ったら、砂煙が上がった。弁当箱の中まで砂が入り込んで、飯がじゃりじゃりして食えなかった。弁当箱は風呂敷で包めと、おっかにしかられたものだ。

 

 わいの村では老若男女で漁の合間に、黒松を植えて砂防林さぼうりんを育てている。飛砂とびすなで磯物が駄目になるからな。かつての大森林を好き勝手に伐採した奴らをのろった。森が無いと土砂が漁場に流れ込む。豊かな漁場にするには森林が大事さ。だが、植えた苗木はすぐに風に吹き飛ばされる。苦労して工夫して、ようやく黒松林ができた。今も植林は続いているよ。何、そんな話しは興味ないって。君は東京人か。自然が厳しい北国の海辺の村のことなんて、想像もつかないないだろうな。村の特産品はあわび布海苔ふのり、献上品の高級昆布だ。


 尻屋崎燈台は有名だろう。青い空と輝く白波を背に、緑の牧草地に建っている白亜の燈台の姿は神々こうごうしい。君に見せたいよ。野放馬を知っているかい。一年中放牧されているめんこい馬たちさ。冬になると風雪に吹かれて、長いまつげを凍らせながら立っている。ごおーと音を立てる荒波と風、そして霧笛むてきと馬のいななきが時々響く。


 でも、尻屋崎沖は海の難所だ。春夏は潮流が速くて濃霧で視界が悪い。冬は大時化おおしけ。そのうえ暗礁あんしょうがあるから、航路を間違えた船は地獄行き。


 船の遭難は見慣れていたが、大正十一年六月のあれには驚いた。わいは小学生だった。村の海岸から数十メートルの浅瀬で、空と海を覆い尽くすような巨大な軍艦が座礁して、船首を村に向けて南北にそびえ立っていたんだ。全長百二十五メートル、七千六百トンの佐世保鎮守府の特務艦だった。第一次世界大戦の山東半島での戦利汽船だそうだ。さいわい百五十七人の乗員は無事脱出。村人は漁を休んで大砲や荷物の陸揚げを手伝った。横須賀から来た三隻の軍艦で引っ張ったが全く動かない。潜水夫が百名来て、二年かかって解体された。さすがにドイツ製の軍艦は鉄が分厚くて頑丈そうだったよ。船底はずっと海に残っていた。


 見物人も多くて、静かな村は連日大騒ぎさ。そのうち新聞記者たちが、わいの村が裕福だと言い出した。東京から迷惑な学者たちも調査に来た。原始共産制の村だと。何のことやら今もわからん。収穫した昆布を村人皆で平等に分けているのが珍しかったのか。当たり前の事だよな。それとも東京では物を皆で平等に分けないのかい。


 村での娯楽といえば男は酒を飲むか博打ばくち。こいだばわがね(これでは、いかん)ということで三余会さんよかいができた。村の青年団さ。そこで坊さんが漢文を教えてくれた。わいは漁師のせがれで小学校しか出ていないが、十五の時から入会して5年目だった。


 何だ君、眠たそうな顔をして。まだ起きていろよ。やっとここでロウザンノマとは、何かわかるぞ。坊さんに漢文を教わっただけで、わいのように漢文に精通できると思うかい。坊さんが持っていた漢文の本は一冊だけだった。うん、そうなんだ。君のさっしのとおり、村には図書館がある。

 

 つまり、ロウザンノマのおかげなのさ。海からの贈り物とでも言うべきか。下北半島の海は凄い。海の幸だけではない。人や物をどっさり運んでくれる。労山ろうざんというのが座礁した巨大な軍艦の名前だ。

 

 尻屋崎燈台から太平洋岸を四百メートル下ったミサゴ島とダッコ島の間に小さな湾がある。そこに労山は鎮座していた。だから湾のことを漁師たちは「労山ろうざんの間」と呼んでいる。ははは、カタカナで書くと異国の女の名みたいだろう。

 

 労山にはたくさんの本が積み込まれていた。論語、孟子、七書などの漢籍が多かったが、雑誌もあった。その本がすべてわいの村に寄贈された。今も労山文庫として大切にされている。漁村に蔵書豊富な図書館ができたというわけだ。読み放題さ。

 

 おや、もう消灯の時間。寝るとするか。ちなみに三余会の三余というのは<冬は歳のあまり、夜は日の余り、陰雨は時の余り>「三国志」魏志・王肅おうしゅく伝だ。ああ、日の余りだというのに、すぐに寝ちまうのはもったいないが、ここは軍隊の宿舎だから従うしかない。何だ君、うつらうつらと船をこいでいるのか。わいは今、無性むしょうに本が読みて。「新青年」が読みて。日本さ帰りて。たのむがら早く、日中戦争よ終わってくれ。   了



参考文献「下北地域史話」三浦順一郎

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