第5話。水玉模様2
「おかげでびしょ濡れだ」
会長は張り付いた衣服を前にどこかこちらの所為だといいたげな視線を送ってきている。
「いや……」
自業自得じゃないのか? 頭に浮かんだ疑問をこちらが口にするよりも早く、会長は冗談だよとその顔を綻ばせる。
「でも見つけた」
会長は努めて明るい声でそう囁く。
「だからもういいよ」
会長は優しい眼差しでそう断言する。
「意外と時間、かかっちゃったけどね」
会長は冗談っぽく笑ってみせては濡れた髪の毛をさりげなく絞る。
「それに、ほら。結構面白かったし?」
会長は言いながらこちらを手で制しては当たり前のように自身のスペースを僅かな雨よけの下に確保する。何となくこちらがマイナスの状態でなし崩し的にイーブンに持ち込まれた気がするのだが、会長のずぶぬれな姿を見ているとそれももういいかなと思えてくるのだから不思議なものだ。
「いや――」
「明日は晴れるといいね」
別に否定するつもりで口を開いたわけでもなかったのだが、結果的にその先は会長の声に押される形で声にはならなかった。
それは唐突で、何の前触れもない。休み前にベンチの上で見た会長の姿そのものだというのに……。
その顔に張り付いた表情からは何も感じ取ることが出来ない。外された視線もどこかここではない遠くを幻視しているようですらある。
「……そっちは濡れますよ」
気が付くと雨空の下。自ら安全地帯から進み出ては全身を会長と同じように濡らしている。おそらく意味はない。その動機も不透明なまま漠然としている。それでも何故か意義はある、そう思えた。
「君……」
雨粒に覆われた視界の最中。微かに届いた会長の声も耳元に打ち付ける雨音によって気のせいか、その勢いを削がれているように感じられる。
会長は今どのような顔をしているのであろうか。せめてその表情だけでも垣間見ることが出来たなら、そう思ったところで最早限界を超えて全身から滴り落ちる雨は、その朧気な輪郭でさえかき消してしまおうとしている。
「らしくないね」
会長は何かを戒めるようにしてこちらに先んじる。そうするからには何かしらの意図があるのだろうが、分からない。その理由も意味も分からない。分からない……。
「会長」
分からないまま口にする。分からないから視線を上げる。屋上に降り注ぐ雨。厚く天を覆う雲。その先。その向こう。分からない、分からなくとも、その先を今は知る術がなくとも、この冷え切った頭で、体で、口で、耳で、鼻で、指で手で腕で足で――まだ出来ることはある。
「君も私のことを会長と呼ぶんだね……」
会長の声はどこか儚げで、今にも消え入りそうなほどか細いというのに何故かしっかりと耳元へは届く。表情は見えない。考えなどもってのほかだ。会長が何を求めているのかなどとそんなことは全くもって見当がつかない。それでも今、自身が何をすべきかだけは分かっているつもりだ。
「明日は晴れだな」
それは真っ直ぐに。だからこそ愚直に。分からないなりに考えた結果、分からないという答えを自信満々に携えては。出鱈目でも一歩を踏み出すように。
「会長」
バカみたいに繰り返す。
「野菜ジュースは勘弁してくれ」
もとい。掘り返す。
「……へ?」
「野菜は嫌いじゃないんだが……合わさるとな」
「う、うん……」
これだけ考えても分からないのだから今の自分にはきっと思いもよらないことだらけなのだろう。むしろ自分でも何をやっているのか分からないぐらいなのだから、それはもうバカ以外の何者でもない。賢い振りをして目の前のことにあれこれと憶測を巡らせるのはもうやめだ。
会長の行動をなぞるように、その手で会長を安全地帯の端へと追いやっては、自身が濡れていることなどお構いなしに隣を占拠する。
腰を下ろせばその位置関係とスペースの兼ね合いから時折吹き付ける風の影響を諸に受けることになるのだが、最早事ここに至って逃げ出そうという気もさらさらない。
「君……」
開き直っては堂々とした態度のこちらに会長は何とも言えない表情をしている。結局それもよく分からないが、今の自分には分からないことを無理にわかった気になるつもりもなければ、分かった振りをして分からないまま無理に体裁を取り繕う気もない。
「それじゃあずぶ濡れじゃないか……」
「ファッションだ」
「……はぁ。やれやれ」
会長は大きくため息をついては、どこか呆れたように、同時に諦めたように苦笑を浮かべている。
「君のおかげでお昼ご飯を食べそびれてしまった」
会長は一転して悪びれた様子もなく、正しく君の所為だと言わんばかりに軽快な面持ちで責任の所在を追及してくる。二人してずぶ濡れのまましばらく視線だけでやりあっては不意に目を細める会長。とりあえずと時間通りに震え始めた携帯だけはそっと止めた上で胸元に戻しておいた。
「まぁ、君がそういうつもりなら、いいんだけどね」
会長は何故か嬉しそうに、それでも渋々といった体でその場へと腰を下ろす。
「意外と強引なんだね、君は」
まるで降りやむ気配もない雨空を前に、横から聞こえるのは会長の楽し気な声。傍から聞いていても弾んでいるのがよく分かる。音で会長が弁当箱を広げ始めたのを理解しては、寝ると一言だけ告げて目を閉じる。風をひかないか心配だが、閑散とした屋上で特にこれといってやることもない。
「あぁ。時間が来たら起こすとしよう」
「次コンクリに顔面をめりこませたら本気で怒るからな」
「はははっ、実は授業をさぼるのは初めてなんだ」
会長は実に楽しそうに笑っている。まるで遠足を翌日に控えたドキドキ感満載の園児のようだ。
「おい、話を逸らすな話を」
あまりに喜々とした声に思わずというよりかは念のため目を開ける。
「心配しなくても大丈夫さ。君の膝は私のものだからね。万が一にも傷つけたりはしないよ」
「……寝る」
隣には遠足前の園児が居た。何も見なかったことにしてそっと目を閉じてはそれ以上追及するのをやめる。
「うん。おやすみ」
瞼の裏で沈んでいく意識の最中、会長のどこまでも穏やかな声が雨音に吸い込まれていった。
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