29 支えてくれるから

 コンサートは熱狂が冷めやらないままに終幕した。

 最後まで大喝采は鳴りやまず、場内に流れる終演を告げるアナウンスがかき消えてしまうほどだった。


「素晴らしかったですね……! 私、まだ熱が冷めないですっ。うー熱いっ」


 大群が出た後を見計らって会場の外に出た直音さんは、真っ赤になった頬を冷気で冷まそうと早速冷えた手の平で頬を包み込む。


「うん。本当に。聞きたかった曲全部聞けちゃいました」


 開演が押したことと退場を遅らせたことで思っていたよりも時間が深まってしまっていた。だけどそんな外の静けさとは異なって、会場を出たばかりの客たちを包む空気は時間など感じさせないくらい溌溂としている。

 直音さんは会場を出たところで掲げられた看板の写真を撮ると、画面を満足そうに見つめた。

 折角だからと彼女に倣って写真を撮ってみる。撮った写真を見ると、先ほどコンサートの途中でボーカルが設けてくれた撮影タイムで撮った写真たちも横に並んでいた。


「わぁ! 樫野さん、よく撮れていますね」


 スマホを覗き込む直音さんは俺の写真を見て感心したような声を上げる。


「私、焦っちゃって手が震えてブレちゃいましたよ」

「あはは。後で直音さんにも送りますね」

「本当ですかっ? やったぁ。嬉しいです!」


 写真を見返していると、その中の一枚で目が止まった。


「はい。ほら、これも送らないとですし」


 直音さんにその写真を見せると、直音さんは「おおっ!」と歓声をこぼした。

 撮影タイムで、ちょうどステージと一緒に直音さんを写せたから彼女に声をかけて撮ったものだった。

 ステージは遠いからバンドは豆粒みたいだけど、雰囲気は十分に伝わる。咄嗟のことだったから彼女に写真を確認してもらう暇もなかった。


「ありがとうございます樫野さん! ふふふ。私、すごく楽しそうですね」

「はい。いい笑顔してます。これも送ります」


 スマホをコートのポケットに戻すと、直音さんは人が少なくなってきた会場を振り返りながらにっこりと笑いかける。それを合図に、俺たちは最寄りの駅まで歩き始めた。


「それにしても……ライブって久しぶりだったんですけど、やっぱりいいですね」


 直音さんが感慨深い声で唸る。


「去年までは色々、気になるライブとかいっぱい行っていたんです。だからこの感覚が久しぶりで……」

「そうなんですね。俺もライブとか久しぶりでした。はは。まだ耳がちょっとおかしいですね」

「ふふふ。ライブあるあるですね。耳栓持って来ればよかったかな」

「あの席だと微妙なところですね」

「ふふふ」


 直音さんはボタンのないコートを体に巻き付けるようにして冷風を防いだ。


「今日はアメリカのバンドだったので歌詞も全部英語で、その場で意味ってあんまり考えないんですけど……。でも、今日はその意味がよく聞こえてきた気がするんです」


 彼女は鼻先を赤くして恥ずかしそうに笑う。


「大体愛の歌が多いじゃないですか。だから、よくよく考えるとすごく恥ずかしいことを言ってるなぁって思っちゃって。この感じ、樫野さん、分かりますか?」

「ははは。ちょっと分かります。え、そんなこと言う? 言えちゃう? ってことを綴ってますよね。まぁ歌だからこそ言えるっていうか」


 彼女の言っている意味がひしひしと共感出来て、俺も歌詞を思い浮かべてこっぱずかしくなって笑う。

 熱を残した頬とは対照的に、ポケットに入れた両手はまだ外気の余韻を残していた。


「文化も違うんでしょうけどね。詩的で、美しいですけど。でも実際に言われたら、照れるを通り越して、もうきっと恥ずかしくて笑っちゃうなぁ。やっぱり歌だから良いものなんでしょうね。歌だと恥ずかしくないですもん。なんででしょうかね」


 直音さんはコートで身体を包んでいた腕を離して片手をポケットに入れた。


「確かに。歌だとむしろしっくりきますよね。あっさりして淡白な歌詞よりずっと響く」

「樫野さんはそういう言葉、口にできますか?」

「うーん……歌なら……いけるかぁ……?」


 そんなこと考えたこともなかったけど。俺は首を捻りながらもそんな可能性を感じてそう答える。まだコンサートの余波に侵されてるみたいだ。でも直音さんの言うように、言葉にするのは絶対無理。というか似合わない。


「直音さんはどうですか?」

「えっ。私、ですか……?」


 話を振られた直音さんはぎくりと驚いたようにこちらを見る。


「はい。愛の言葉、囁けます?」

「うぅーん……えー……?」


 直音さんは困ったように眉尻をさげて難題に立ち向かう政治家のように難しい顔をした。


「あはははっ。冗談です冗談。曲は、愛の曲だけじゃないですよね。色んな感情に寄り添ってくれます。あのバンドも。だから俺は、学生の時にあのバンドの曲が聞きたくてたまらなかったんだろうなぁ」


 直音さんはエヤのようにむぅと口を小さくすると、俺のことを訝しむように慎重に上目で見てきた。

 そんな顔をされると少し申し訳なくなる。俺はごめんね、と眉を下げて弱弱しく笑った。


「…………私、病気を診断されてから、たくさんの曲を聴きました」


 ふと直音さんの声のトーンが水面のように落ち着きを払いだしたので俺はつい身構えてしまう。

 いや駄目だ駄目だ。こちらが警戒態勢になるなんて、意味が分からない。

 これまで隠していたことを俺に話せたからだろうか。以前よりも自然と感情を吐露してくれるようになった気がする。


「その中に今日のバンドの曲もあって……。確か、最後から三番目に歌ってたかな? 道徳的な決断が出来ない自分に困惑してた時に、励ましてくれたような気がしたんです」


 それは前に彼女が告げてくれた希望。それが一般的には理解してもらえないと判断したことを意味しているのだと思う。俺もそのうちの一人になる。本質的には理解したくない。例えそれが彼女の望みだとしても。


「何度考えても、結局は同じ結論で。私はやっぱりどこまでも駄目だなって落ち込んでたんですけど。でも、皆と違うのは当たり前だし、自分らしさっていうか、それを否定したくなくて」


 直音さんは真っ直ぐな眼差しを俺に向ける。


「樫野さんは、自分らしさ、って何だと思いますか?」

「……客観的に見えてくるものだから、他人が決めることの方が多い特性、かな……?」


 素晴らしい言葉だと思うけど、現実的には自己評価のほとんどは他者評価に引っ張られていく。だから人は自分の居場所を求めて、自分探しという名の迷路に迷い込んだりするんだろう。

 直音さんは俺の答えに頬を綻ばせて微笑んだ。


「私もそう思ってました。それに気づいた時、だから私はあんな絶望感を感じてたんだなぁって、納得できました。でも樫野さん。私は、そうじゃない”らしさ”を選びたいんです。それであの曲を聴いた時、その選択をしてもいいんだって、決意できたんです。私は、ずっとそう思っていたんだって」


 後ろ向きすぎる。

 なんて退廃的な決意なのだろう。


 そう言って彼女の意志をゴミ箱に捨ててしまうのはやろうと思えば今すぐにでも可能だ。

 でも例えそうだとしても、彼女が弱虫だとか、卑怯者だとか、そんな風には決して思えなかった。むしろ彼女から漲る活力はその反対で。誰よりも強くて勇敢に見える。


 生きることに希望を見出せとか、簡単に諦めるなとか、全てを投げ捨てるな、目を覚ませなんて説教するのは簡単なことだ。だが彼女は命を粗末にするわけでも、諦めたわけでもない。

 見方によっては勿論そう見えるし、多くの人は彼女を憐れむだろうと容易に想像が出来る。


 隣を歩く彼女は可哀想だろうか。悲劇だろうか。

 それはこちらが勝手に決めていること。見えないものを決めつけたくなるのは自分の心に納得と平穏を与えたいから。それこそが横暴ってやつじゃないのか。


「…………直音さんの”らしさ”って、なんですか?」


 恐る恐る聞いてみる。彼女の口から白い空気が出て行き、恥ずかしそうに肩をすくめた。


「恐れないこと」


 一言だけそう言うと、直音さんは俺を見上げてはにかむ。さらりと言ってのけたけど、きっと彼女の中では一位二位を争うくらいに人には言いたくないことだったのだとその瞳が伝えてくれる。


「もう怖がるのは嫌なんです。あの曲で、それに気づけたんです」


 彼女は優しい息とともにそう吐きだした。

 唇を閉じた彼女は足元へと目線を移す。静かな夜に、車の走行音と向こうを走る電車の音だけが街を鳴らす。

 彼女はとっくに目が覚めている。

 冴え切った眼差しで見つめるのは、恐れることのない未来だ。それが彼女が目指す希望。

 冷気を鼻から吸い込むと、喉を通って胸までひんやりとした空気が染み渡る。コンサートの熱の余韻が少しずつ収まっていき、思考がクリアになってくる気がした。


「直音さん」


 俺が声を出すと、直音さんはその眼差しをこちらに上げる。


「その曲、俺も好きなんです」


 俺はその瞬間に決意していたのだろう。

 彼女の意志を尊重する。それこそが俺の彼女に対する感情に呼応する唯一の答えなのだと。

 直音さんは俺をしばらく見たまま何も言わなかった。

 けれど次第に彼女の表情は柔らかに揺らぎ、小さな声を出してこくりと頷いた。


 家に帰ると、エヤとミケがチョコペンで施したらしき俺の似顔絵がパンケーキに描かれていた。

 エヤとミケはもう眠っていて、机の上に突っ伏している心寧の肩を揺すぶって起こす。


「んー……帰ったぁ?」

「うん。ただいま。遅くなって悪い」

「いいよぉ……お礼は……新しいスマホで……」


 心寧はむにゃむにゃと寝ぼけながらもちゃっかりと戯言を残してまた眠りにつく。

 置いてあったブランケットを心寧に被せて流し台に残っているお皿を見やる。

 多分、エヤとミケと何かに夢中になっていて洗い損ねたんだろう。

 座ってしまうとやる気がすべて失われるから、その前に皿洗いをしようと早速洗い場に立つ。

 蛇口から出てきた水はお湯に設定しているのにまだ冷たくて、思わず指を引っ込めた。


「…………よし」


 しばらくしてからまた水に手を当てる。だいぶマシになった。

 もう今日は心寧は泊まっていくことになっているから、これが終わったらさっさと起こして寝る支度に入ってもらおう。

 そう決めていたけど、洗い物が終わったと同時に心寧がむくりと身体を起こした。起こす手間が省けた。とか呑気なことを考えていると、心寧がこちらを見ながら目をこする。


「楽しかったぁ? お兄ちゃん」


 行く前に聞いていた心寧のアドバイスを思い返す。

 それが守れたのかは自分じゃ判断できないけど、とりあえず言えること。


「ああ。楽しかったよ」


 ステージの明かりで逆光になっていた彼女の影が微笑んでいた様子が脳裏に浮かび、俺は心寧にそう答えた。

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