28 主役は遅れてやってくる

 たぬきの塾がドレスアップをしてから数日後。俺はエヤとミケの報告からその明かりが近所でも毎年名物になっていることを知った。なかなかに好評なようで、今日も門の外側から見物をしている人がいる。近所の人なのだろう。常連となっている彼らに気軽に声をかけている大志さんの笑顔が見える。


「お待たせしましただすカシノっ」


 エヤとミケがリュックを背負いながら玄関に座り込んで靴を履く。


「大丈夫だから慌てなくていいよ」


 ぱたぱたと落ち着きのない様子の二人に向かってそう伝える。


「だめだめだすっ! 明日はココネチャンが来るから、部屋をお片付けしたいんだす」


 エヤのコートのボタンが掛け違いになっているのに気づく。直そうとしゃがみこむと、エヤは前に進めなくなってもどかしそうな声を出した。


「心寧は多少散らかってても気にしないよ。俺には厳しいけど二人には甘いから」

「でもー……!」

「俺も手伝うから。はい、深呼吸」


 エヤは大きく息を吸い込んでから勢いよくすべてを吐きだした。すると少し焦りが落ち着いたようだ。


「イタル、今日は早く終わったの?」


 靴を履き終えたミケがしゃがんだままの俺の傍まで寄ってくる。


「うん。だから迎えに来た」

「うん。待ってたよイタル」


 ミケは俺の言葉に静かに頷くと、手袋を忘れた手を伸ばしてきた。寒いから手を繋ぎたいんだろう。

 立ち上がってミケと手を繋ぐと、それを見たエヤも反対側の手に掴まってくる。

 このままだと買い物の後荷物が持てなくなるな。

 そんなことを思いながら門を出ると、近所の人と話していた大志さんがすかさずこちらを見て声をかけてきた。


「至さん! ライブ明日だったよね? 行けそうでしたか?」

「はい。おかげさまで行けそうです。ありがとうございました大志さん」

「いーえっ! 感想聞かせて欲しいなぁ。ミケちゃんエヤちゃん、今日もお疲れ様でしたっ。じゃあねー」

「はーい! さよならタイシサンっ」

「ばいばい」


 大志さんに会釈をした後でスーパーへと向かう。

 今日の夕飯だけじゃなくて明日の分の食料も買っておかないと。明日は心寧が来てくれるから、あいつの好きな和菓子でも買っておこうかな。

二人の歩幅に合わせながらゆっくり歩いていると色んな事が考えられてこれも悪くない。


 エヤとミケは互いに今日のたぬきの塾で出た宿題のことを話していて足元が少し疎かになってきた。

 俺までぼーっとしてたら危ないな。

 まだ買い物リストを考えていた途中だけど、俺は思考を途中で止める。二人のことをちらりと見てみると、すごく真剣な様子で話し込んでいる。そんな二人の邪魔はできないから、俺のことは後でいいか。

 そう思いながら、はきはきとした二人のキャッチボールに耳を傾ける。


 エヤは家に帰るなり部屋の片づけに勤しんだ。ミケも渋々手伝ってはいたけど、そこまで乗り気ではないのは途中で漫画を読みだしたところで明白になった。

 明日は夜に俺がコンサートに行くから遅くまで家を空ける。二人のお世話を心寧に頼み込んだところ家に来てくれることになったのだ。もともと二人の世話をすることに文句はないようだったが、心寧は一筋縄ではいかない。

 誰と行くのかとしつこく聞いてきた。しょうがなく答えたら、心寧は更に前のめりになって引き受けてくれた。


 一緒に行くのは直音さんだ。

 彼女に聞いてみたところ、あのバンドのことは直音さんも前から好きだったらしい。

 直音さんと行くと告げると、心寧は何を思ったのか彼女に失礼がないようにと念を押してきた。流石にそんなことは分かっている。とはいえ、今の俺には少しチクリとくる言葉だった。


 直音さんの病状を聞いてから直接会うのは明日が初めてだ。彼女は一体どんな顔をして会ってくれるのだろう。そして俺もまた、彼女を見た時にどんな顔をするのだろうか。

 心の整理なんてまだ出来ていなかった。エヤが一生懸命片付けている部屋はどんどん整然として落ち着きを見せてくるというのに。俺の心はまだぐちゃぐちゃなままだ。


 もういっそのこと誰かに片付けてもらえたら楽なのに。

 でもそんなことは不可能で、自分の心は自分で整えて決着をつけるしかない。

 明日のコンサートが楽しみなのには間違いない。しばらくぶりにバンドの曲を聴き返したくらいだ。

 直音さんの声をゲーム越しではなくて直接聞きたいし、その姿を、移りゆく表情をきっと追ってしまう。

 だけど反対に、彼女に自分が何を言うのか想像もつかなかった。

 ご親切な心寧の忠告が胸に深く刻まれて、俺は改めて緊張が胸に潜り込むのを受け入れた。



 「樫野くん今日も早いね?」


 パソコンをシャットダウンしていると、藍原さんがほんわかとした声で尋ねる。キーボードを打ち込むことを止めた指先で、彼女の艶やかな爪が電球を反射させた。


「はい。定時なので帰らせてもらいますね」

「ははは。うむ。よきかな」


 藍原さんは絵に描いたようなにんまり顔で頷く。


「お疲れ様です」

「はーい。お疲れ様です」


 鞄を肩にかけて椅子をしまうと、藍原さんに続いて周りの数人が挨拶を返してくれた。

 病院を後にした俺は腕時計の時間を気にしながら急ぎ足で駅まで向かう。

 直音さんとは会場の最寄り駅で待ち合わせをしている。彼女の会社の方が近いから、恐らく先に着くのは彼女だろう。待たせるのは悪い。

 先に調べておいた経路と乗るべき電車の時刻を頭に浮かべながら、久しぶりに歩幅を広げて歩いていく。

 最寄り駅に着くと、案の定直音さんが待っていた。いつも先手を打たれてしまう。それが少しだけ悔しくて、僅かに眉尻が下がっていった。


「樫野さん! お疲れ様です。今日はありがとうございます」


 直音さんは俺を見るなり嬉しそうに笑いながら微かに身体を弾ませる。会社終わりの彼女はマスコットのついていない鞄を肩から掛けていた。彼女の明るい表情はいつもよりアイシャドウが煌めいているように見えた。


「いえ。一緒に行けて嬉しいです」


 何も考えずにそう答えると、彼女ははにかみながら駅に掲げられた時計に目を向ける。


「まだ少し時間がありますね。軽食、食べておきますか?」

「終わった後だと遅くなるし、そうしましょう」

「はいっ!」


 会場に隣接した商業施設を目指して並んで歩き始める。

 直音さんはバンドのコンサートに行けるとは思わなかったと興奮した様子で語り、メンバーの話なんかを聞かせてくれた。

 そんな彼女を見ていると、昨日までの不穏な緊張なんて忘れてしまえた。

 彼女に何を語るのか、彼女が何を話すのか。何も構える必要なんてなかった。

 実際に彼女を目の前にすると、邪念なんてどこかへ飛んでしまうし、勝手に自然な言葉が出ていく。

 軽食屋で俺はサンドウィッチ、彼女はスープを食す間も、これまで通りの時が過ぎていった。


 今ここにいる彼女とゲームを駆け回る彼女。そのどちらも同じ、初橋直音さんだ。違いなんてなくて、オンラインだろうとオフラインだろうとそんな境界は関係なかった。

 軽食を食べた後は近くのコーヒー店に入り、直音さんは季節限定のドリンクを買った。

 毎年楽しみにしているんです。

 そう言って彼女は会場の前にあるベンチに座ってドリンクを飲み始める。


「…………美味しい! 今年は当たりですねっ」


 一口飲みこんだ直音さんは目を見開いてそこに光を映した。会場の外も例外なくイルミネーションに囲まれているからだ。


「ふふふ。樫野さんも機会があったら飲んでみてくださいね」


 彼女はそう言って笑うが、彼女の飲んでいるそれは基本的に甘い。俺に全部飲み切れるのかな。そう思っている時点で今度買おうとしていることに気づいて、俺はつい頬が緩んだ。


「そうだ樫野さん。この前はすみません。ドタキャンしてしまって……」


 直音さんは残り半分以下になったドリンクのカップを両手で包み込んで膝の上に置く。

 忘れていたあの時感じた不安が一瞬だけ胸をよぎる。だけど俺はそれを振り払うように首を横に振った。


「いいえ。気にしないでください。もともと、こちらが強引にお願いしたようなものですし」

「でも……エヤちゃんとミケちゃんの活動、見てみたかったなって、私もすごく残念でした」

「それ二人が聞いたらきっと喜びます。直音さんに会いたいって、ごねてましたから」

「ふふふ。嬉しいなぁ……。あ、この前は何をやったんですか? でぃ、ディスカバリー、隊?」


 直音さんは人差し指を立てて言葉を思い出そうとする仕草をして名称を手繰り寄せる。


「たぬきの塾の装飾です。正直、かなりクオリティ高いと思いますよ。そこらの施設の装飾に遜色ないと思います。あ、写真……」


 俺は大志さん経由で泉美さんが送ってくれた写真を思い出してスマホを取り出す。

 画面を点けると、ちょうど心寧から家についた旨とエヤとミケとパンケーキを作っている報告が来ていた。

 夜にパンケーキを食べるのか。

 それでいいのだろうかとふと思ったが、一緒に送られてきた写真を見ると、三人が生地を混ぜながら変顔をして楽しそうにしている姿が写っていたので今回は見逃すことにした。


「? どうかしましたか?」


 動きが止まった俺を見て直音さんがドリンクを飲みながら首を傾げる。


「いえ。心寧から連絡が来ていたので。見てください、パンケーキが夕飯みたいです」

「あっ。ふふ、三人とも可愛いですね。楽しそう」


 直音さんにスマホの画面を見せると、彼女は三人の変顔に一度びっくりしながらもすぐに表情を崩した。


「俺の分も残してくれてるかな……」

「ふふふ。どうですかねぇ」


 くすくすと笑う直音さんの持っているドリンクはもうじき空になりそうだ。そろそろ会場に入ろうかな。

 俺は首を伸ばして入場する人の波が落ち着いてきたのを確認した。


「で、たぬきの塾の写真はこれです。結構すごくないですか?」

「ああ! 確かに! これ、この子たちでやったんですか? すごい……」


 直音さんは写真を目にするなり見入るように前のめりになる。俺は少しだけ手伝っただけだけど、なんだか人一倍嬉しく感じた。エヤたちの頑張りを認めてもらえたようで。


「寒くなってきましたし、そろそろ会場に行きましょうか」

「はいっ。ふふふ。楽しみです!」

「パンケーキはないけど、こっちも楽しみましょう」

「ふふふ。どちらも甲乙つけがたいですが、負ける気がしませんね」


 チケットを見せて会場に入ると、ロビーはガヤガヤとした祭りの前の喧騒が溢れていて、皆がコンサートの開幕を楽しみに待っている様子を全身で感じられた。

 隣の直音さんもそれに伝播されたのか、入る前よりもそわそわとした様子で席案内を見つめている。

 貰ったチケットの席はスタンド席だった。この会場は一階がアリーナで二階と三階がスタンドだ。


 二階に上がり、席のブロックに一番近い扉から中に入る。ロビーよりも多くの人が待っているから、扉を挟んだだけなのに場内は更なる熱気を感じた。

 アリーナ席も大体は埋まっていて、スタンドもすでに観客で溢れている。今回のワールドツアーのグッズであるタオルを首から掛けている人が多くて、コンサートに来たのだと改めて実感が出来る光景だった。


 座っている人に断りを入れながら自分たちの席につく。距離的には後方だけど、ステージ全体が見える良い位置だった。一列目だからか視界も良好。背が低めの直音さんが見えなくなったら申し訳ないなと思っていたけど、これなら問題なさそうだ。ステージに近い方の席に直音さんに座ってもらい、俺は再度大志さんに感謝の念を送る。


 直音さんは席につくなり階下のアリーナ席の様子を窺っていた。世界的にも人気なバンドのためか、まさに老若男女がそこにはいた。皆が同じバンドの曲を聴くためにここに集ったのだと思うと、否が応にもその人気度を再認識させられるし、興奮も少しずつ昂ってくる。


「今日はもうここでしかやらないからさ、有休を使っちゃったよ」


 時間にも間に合ったし、まずは一息かな。そう思って肩の力を抜いていると、後ろの人たちの会話が聞こえてきた。恐らく少し年上くらいの社会人の男性三人組。その内の一人はどうやら遠方から来たようで、ついでに観光をしようと何日か休みを取って来たようだ。


「分かる。日本にはほんのちょっとしかいないもんなぁ。しかも一箇所だけだし、それは当然の対応だな」

「いいな。俺、もう有休残り少ないんだよ。遠征ライブ行き過ぎたかな」

「お前は海外まで追いかけるもんなー」


 気の置けない様子で賑やかに話す彼らの声は、意識しなくても耳に届く。それは直音さんも同じようで。


「会社にちゃんと言っとけよ? 俺はライブのために働いてるんです! って」

「はははは! それで有休が増えたら文句ねぇな。ってかもうそれ言ってるんだけど」

「まぁ実際そうしたいなら出世するしかない」

「ハードル高ぇよ」

「でも会社にそういうことも話せていい環境だよなぁ。俺のとこなんてそんなこと言ったらどんな反応されるか分かったもんじゃないよ」

「じゃあ転職すべきだな」

「しんど」


 三人はまた声を上げて笑う。すると直音さんの表情が少し下へと落ちる。


「……直音さん?」


 場内は開演前とはいえロビーと比べても照明は落とされていてスモークも焚かれている。だから霞がかったようになってしまい視界が見にくい。直音さんに暗がりが落ちたように見えても、それは錯覚でもおかしくないくらいだ。だけどそうは思えない違和感があって、俺は彼女の顔色を窺おうと若干顔の位置を下げる。


「はいっ? なんですか?」


 しかし直音さんは俺の声が聞こえてくると、ぱっと顔を上げて朗らかに笑うだけだった。


「ううん……。あと少しですね。海外アーティストって、開演が遅れるのも風物詩じゃないですか。今回はどうですかね?」

「うーん…………二十分は押しますかねぇ」

「じゃあ俺は三十分で」


 直音さんは俺の顔を見て挑戦的な眼差しをすると、途端にくす、くすと笑った。

 さっき見えた暗がりはやっぱり気のせいだったのだろうか。俺が気にしすぎなだけ?

 調子の変わらない彼女の笑い声に、俺はぼんやりと心を滲ませる。

 主役バンドの演奏の前に前座のバンドが演奏を開始した。待ちきれない観客たちはそのバンドに対しても熱量を送り盛り上げる。会場のボルテージが上がってきたところで一度前座のバンドは演奏を終えて、またしばらくの歓談タイムへと戻る。


 直音さんと俺の賭けは、直音さんに軍配が上がった。

 前座が終わり、開演時間になった後も彼らはすぐに姿を現さず、観客たちを焦らし続けた。

 そしてついに照明が完全に落ちてステージが煌々とした期待を放つと、待ちくたびれた観客たちは場内が揺れる歓声とともに一斉に立ち上がって拍手で彼らを迎える。

 ざざざっと周りが立ち上がると若干の窮屈さを覚えていた身体が解放され、急速に快適になったような気がした。やっぱ立って見た方が身体全体で音楽に乗れるし、表現もできるから楽しいかな。


 そうは思うが、隣の直音さんをちらりと見やると彼女は肩をすくめて小さくなっている。

 バンドが姿を現して観客たちを煽るように両手を上げると、また一段と大きな歓声が沸き上がった。

 直音さんはその声に顔を上げ、彼女を見ていた俺と目が合う。


「あ……樫野さん……」


 まだ座ったままの俺を見て、直音さんは眉尻を下げた。


「…………直音さん。ここ結構柵が低くて怖くないですか? 立ったら夢中になっちゃって転がっていっちゃいそうですね。このまま座って見ててもいいですか?」

「……えっ……?」


 彼女は目を丸くしたまま固まった。が。


「はい……っ!」


 彼女がそう返事をした途端、肩身を狭そうにしていた彼女の表情が懸念を肩から下ろしたように和らいだ。


「ここ、全体が見えるし特等席ですよ。特等席をじっくり楽しみましょう」

「そうですね……っ。ふふふ。はいっ」


 直音さんは俺の言葉に嬉しそうに手を合わせて微笑んでからステージの方へと目を向けた。

 俺は視界に入る彼女の横顔が演出のライトで優しく揺らめいているのを見つける。

 彼女は恐らく、コンサートを立ちっぱなしで見続けられるほど体力に自信がないのだろう。

 でもそれだと楽しんでいないように見えてしまうのではないかと引け目を感じた。そんなこと、誰も思わないのに。少なくとも俺はそうは思わないし。

 だけど気遣いの彼女は必要以上に周りの目のことを考えてしまう癖がきっとあるのだ。


 聞き慣れた音色が会場に響き渡りボーカルの声がマイクを通すと、一回歓声が上がった後で皆は待ちわびた生の歌声に酔いしれる。

 録音された歌声よりも力強くて、その場で弾いているから当たり前なんだけど楽器の音も手が触れられそうなほどに臨場感に満ちていく。

 黙っていても心は高揚して、懐かしい学生時代なんかも思い起こされる。

 幾度となく聞いた楽曲。

 初めて聞いた時よりも歌詞の意味も分かってきて、座ったままでも身体は勝手にリズムを求める。

 周りは立ち上がっているから視界に見切れるのは足ばかり。ただ一人、彼女を除いては。

 直音さんはステージを見つめながら静かに身体を揺らして音色に聞き惚れているようだ。

 俺もそんな動きに合わせながら、焦がれ続けた楽曲を全身で浴びた。

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