朝はどこだ

江戸川台ルーペ

◆◆◆

 朝はどこだ


 西はどっちだ


 二行ほど書いて持ち慣れないボールペンを止めた。何をしているかというと、小学5年生の娘の夏の宿題を手伝っているのだ。


「詩をかきなさい」


 大人になってから、経済新聞しか読まない駿輔でも知っている有名な詩が例文として印刷されていた。どこかで陽が昇る時、どこかでは陽が沈み、誰かが恋に落ちている、というような話だ。なるほど、そういう感じで書けばいいのか。しかし、雰囲気で二行ほど書いてから既に十分、文字は全く進まない。テーブルには妻の明日菜と、娘の日菜子が座って同じく作業をしていて、時刻は夜の10時を過ぎていた。


「なあ」


 駿輔は妻に声を掛けた。妻は算数の答えを書き入れる手を止めずに「何」と冷たく返事をする。


「俺に詩を書け、という方が無理だ。このままじゃ、宿題は一生終わらない」


 妻はちらりと駿輔の手元を見て、大きなため息をついた。


「ねえ、そもそもの話なんだけど」


 妻はすごく機嫌が悪い。娘が夏休みの宿題を「終わった」と嘘をついて、その実全くやっていなかった事が判明したのがつい三時間ほど前だったからだ。娘も腹を括って堂々と白紙で明日の登校初日を迎えれば良いのに、やはり罪悪感に耐えきれず「実は1ページも終わらせてない」と食事中に泣きながら白状したのだ。今は目を腫らし、グスグスと鼻を啜りながら鉛筆を走らせている。


「何であなたはボールペンで書いてるの? 小学校はボールペン禁止なのよ?」


「マジか」


 駿輔は社会科の冊子を終わらせたばかりで、そこには娘の筆跡を真似た、黒々としたpilotのJetstreamのインクがのっていた。駿輔は学生の頃からpilotのボールペンを愛好していた。慌てて修正テープを取り出して上から答えを消していく。


「ちょっと! 何してるの!」


 妻が怒った。娘が肩を小さくする。


「ボールペンで答えを書いちゃったんだよ。社会科の冊子まるまる」


 駿輔は正直に白状した。


「だからって、修正テープで消してどうなるっていうの?」


 妻が手を止めて冷たい目と声で射抜く。


「そもそも、あなたには昔からそういう所があるのよ。そういう、システマチックに物事をこなせば良いと思っていて、細かい事は後でどうにかなるだろうって思ってる」


「答えは合ってる」


 駿輔は弱々しい声で弁明した。


「社会科は僕の得意分野だ」



 妻の声が一つか二つ低くなった。良くない兆候だ。


「分かった。残ってる漢字の書き取りは鉛筆で書くよ」


 駿輔はいかにも申し訳なさそうに謝罪した。このまま夜通し自分の欠点を一つずつ告発されながら、娘の宿題の処理をするのに比べれば安いものだった。妻はすごく器用で、何かをしながら何かをする、という作業がすごく得意なのだ。目玉焼きを焼きながら裁縫だってするし、トイレ掃除をしながらテレビを見て、携帯電話でメッセージを送りつつ洗濯物を取り込むというような事も余裕でやる。算数の宿題をしながら僕の悪口を言うなど、余裕でしかないだろう。むしろ調子が上がるかも知れない。妻は大きな溜息をついた。


「日菜子、先生に何か言われたら『お出かけをしていた旅館にボールペンしかなかった』って言うのよ」


「うん」


 娘はあどけなく頷いた。こうして娘が汚れていくのだと思うと、駿輔の心はシクリと痛んだ。たかだか夏休みの宿題くらいで。こんなくだらない、一生使わない地図上に示される工場の記号などなどをボールペンで書いたばっかりに。


「日菜子からボールペンで書いた事は何も言わなくていいからね。どうせ先生なんて大勢の生徒を抱えてるんだから、いちいち宿題のチェックなんかしないんだから、自分から弱味を見せなくていいわ」


「うん」


 駿輔は何も聞かなかった事にして、詩を後回しにして漢字の書き取りに集中する事にした。久しぶりに鉛筆を使って。優優優優。くそ、これ何の意味があるんだ。環環環環。



 ◆



 結局、宿題が終わったのは午前二時を回った頃だった。娘はテーブルで船を漕いでいたので部屋に抱えて行き、布団を被せた。妻は二人分のコーヒーを作り、リビングのソファで啜っていた。駿輔もコーヒーを受け取って飲んだ。


「日菜子、最近変だと思わない?」


 妻がポツリと言った。


「前まで宿題を終わらせない何て事、一度も無かったのに。突然どうしちゃったんだろう」


「まあ、そういう事もあるさ」


 駿輔は綺麗に磨かれたガラスのテーブルや液晶テレビの表面を眺めながら言った。


「ちょっと良い子過ぎたんだよ今まで。少しずつ手を抜いたり、ズルを覚えるのも悪くない年頃なんじゃないか」


「違うのよ。何て言うか、学校でも友達と上手くいってないみたいだし、帰りに買い食いとかもしょっちゅうしてるみたいなの」


「買い食いぐらい僕もよくしたよ」


「その、言いにくいんだけど……」


 コーヒーを片手に、妻がこめかみに手を当てて黙り込んだ。だいぶ疲れているみたいだった。妻は都市開発の仕事に携わっていて、朝の二時からはまさに活動時間だった。いつもなら自室に篭って線を引いている。


「あたしの財布から、時々お金を抜いてるみたいなの」


 駿輔はボールペンを片方の手のひらでクルクルと回した。いつも一人で講義を受ける時にやっていた手遊びだ。


「わたし達、何か間違ってるのかしら」


 駿輔は言葉もなく、コーヒーを啜った。豊かな匂いと雑味のない苦味が喉を通っていった。妻はコーヒーを淹れるのも上手いのだ。


「何か、間違っていたのかしら」



 ◆



 朝はどこだ


 西はどっちだ



 妻が自室に戻って仕事を始めたので、駿輔は最後の懸案に取り掛かる事にした。二行で止まっている詩の続きだ。


 朝はどこだ


 西はどっちだ


 山は高いか


 海は深いか


 犬は鳴くか


 猫は丸いか


 ──悪くない。


 小銭が欲しいか


 仕事はどこだ


 駿輔は少し考えて、消しゴムで消す。


 大きく息を吸って、深くソファにもたれる。目を閉じると、眠気がまぶたの上にのし掛かる気配がある。僕はおそらくこのまま眠ってしまうだろう、駿輔は思った。別にそれで構わない。起きたらまた続きを書けば良いのだ。何なら詩はこのままで完成にしてしまっても良い。僕が2行か3行で詩を完成としたところで、アフリカ象の密猟者がコレラに苦しむ訳でもないのだ。じっと目を閉じる。身体が浮遊する感覚を最後に、意識がフッとやわらかく断ち切られる。



 木はまっすぐか


 水は流れるか


 洗濯ものは乾くか


 マグカップは冷たいか


 朝はどこだ


 ゴールは見えるか


 そのとき


 僕はどこだ



(終わり)



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