ゴールなきランナー

秋色

ゴールなきランナー

 秀人は歩道橋の上で夕陽が沈んでいくのを眺めていた。


「日が沈む時のスピードって意外と速いんだな……」


 思わず口に出た。通勤途中の歩道橋から、車の流れや遠くの街並みを少しの間だけ見る。それが最近では毎日の習慣になっていた。別に通勤を楽しんでいるわけでもない。言うなら時間稼ぎのようなもの。朝は職場に早く着き過ぎないため。ちょうど良い時間帯の電車がないので、毎朝少し早めの電車に乗り、ここで調整しているのだった。

 そして帰りはあまり早く帰っても、アパートの部屋に帰ってする事がないから少し歩道橋で時間を潰し、またさらに商店街で本屋や文房具屋をブラブラ回ってから帰った。

 秀人は春に大学を卒業し、仕事を始めて、もうすぐ一年になる。でもそれはあまりに味気ない社会人生活のスタートだった。他の同級生達がビル群の中の企業で新社会人として華々しいスタートを切っている間に、古びた介護施設、「ローズガーデン」の事務職をしているのは。たくさんの企業の面接を受け、落ちてきた結果、唯一合格の、試用期間後正社員の通知を得た企業だった。


 そこには、秀人の両親くらいの、いやもっと年上の祖父母の世代の社員までいた。看護師で他の病院で退職をした後働き始めた人もいた。皆、楽しそうに働き、雑談をしている。

 同世代がいないわけではない。ヘルパーとして、小学生時代の同級生、健太がいる。成績はクラスで真逆だった。あの頃秀人は優等生で、それに比べ健太は毎日のようにひどい点数のテストを手にしていた。それが今や同じ職場で、相手は毎日、結構楽しそうだ。当然話しかけにくい。

 施設長は明るく、秀人にも気軽に話しかけた。勤務の初日に、施設長は秀人にホールにある柱時計のいわれを話した。元々、自分の祖父が外国から持ち帰った貴重な骨董品であるという話だった。

 ただこの時計は貴重なものかもしれないが、時々止まっては、また修理に来てもらい、動き出す、そして修理されなくてもまた動き出す事もあるという気紛きまぐれな時計だった。秀人にはその時計がローズガーデンそのものに感じられた。

 

 秀人は歩道橋の上で、小さなため息をついた。

 その時、薄い紅色に染まった街の舗道を走る人影に気付いた。


 ――あ、また走ってる。あの人……に似ている――


 そこには最近、気付くようになった一人のランナーの姿だがあった。朝と夕、秀人が歩道橋の上にいる間に彼は、颯爽さっそうと舗道を走り去っていく。

 そしてその姿は秀人にある人物を思い起こさせた。それは七年前に引退した芸人さんで、すでに売れ筋だった二十才の頃から自分は三十年で引退すると言い切っていた人。シュート光石。自分の名前がシュウトとも読めるため、秀人は親近感をいだいていた。

「ゴールの決まっているマラソンの方がよく走れる」が彼の持論だった。勿体ないという世間の声には耳を貸さず、自分を貫く姿に、秀人はカッコイイと感じていた。


 ――そうだ! いつか追いかけてあのランナーがあの人かどうか確かめよう。それを目標にしてそれまでは今の仕事を辞めないでおこう――


 そう決めると心がラクになった。それで、鞄の中の辞表をサイドポケットに入れたままその日も家路についた。


 そしてそれを決めた日からは、あまり職場での色々な事が気にならなくなった。他の職員達が、健太も含め、仲良さそうに話をしていても。施設の庭で飼われているネコが誰にも懐かず、自分が近付いてもソッポを向いても。

 施設の利用者の老人達の奇妙な行動も。そこには程度の進んだ認知症の人はいないものの、普通のお年寄りの行動も秀人にとっては十分奇妙だった。

 ある老婦人はいつも何に使うかも決めていない編み物を延々と続けている。ギターの練習をしているある男性は、いつも同じメロディーの冒頭部分を練習しているが、永遠にそこから先に進まない気がした。


 ☆



 六月に入ったある日を境に、朝夕と歩道橋の上から見かけていたランナーの姿を全く見なくなった。最初は風邪でもひいたのかと思っていた秀人だったが、二週間にもなると、さすがにもう走る事もやめたのではないか、あるいは風邪などよりずっと重症の病気にかかったのではないかと心配するようになった。そしてランナーを追いかけて確かめるという、ちょっと無謀な計画をもう諦めかけていたある金曜日の朝、再びランナーは現れた。


 歩道橋を慌てて降り、追いかけた秀人は、途中、その日の勤務を休むと電話した。どんどん追いかけて彼の家まで行ってみようかと思っていたのだ。

 だがジョギングは終わらない。いつしか山に囲まれた場所へ、そして遠くに海の見えるところまで来た。ちょっとした山道にも思える程、それでも木材を使って人の通り道である事を示してある急な斜面。登りきった場所には公園があった。

 ランナーは振り返り、意外な言葉を口にした。

「若いの、ここで缶コーヒーで一服するか?」



 ☆



 数分後、二人は海が見晴らせる公園のベンチに腰掛けていた。シュート光石は買ったばかりの温かい缶コーヒーの1本を秀人に渡した。


「跡つけてる事にいつから気が付いていたんですか?」


「ずっとな」


「それでこんな長いジョギングコースになったんですか? 僕を巻こうとして」


「いや、それは違う。今日が最後なんで海の見えるここまで走ったってわけさ」 


「今日が最後って?」


「明日、出身の九州に帰るんだ。もう四十年ぶり位でさ。広い土地に野菜なんか植えてノンビリするさ。君若いけど、僕の以前やってた事のファン?」


「ファンって言うか、カッコイイって思ってました、生き方が」


 相手は吹き出した。

「もしそんな理由で追いかけたいのなら、もっと別なやつを追いかけな。生き方をカッコイイって思ってほしいやつなら幾らでもいるよ」


「そんな事はないです。だってみんな諦めが悪いと言うか、潔くないと言うか、何かにしがみついてる感じします。ゴールを決めてたあなたとは違います」


「その事なら後悔してる」


「え? なんで……ですか。やめなきゃ良かったって事?」


「いいや。ゴール決めてからはそこまで行くのが義務みたいになってしまってたからね。ゴール意識してから楽しいなんて感じた事ないし、誰もそんなやつの事、本気で面白えって応援したり、芸に惚れ込んだりしないさ」


 秀人は、それを聞いて、何か心の中に風が吹くような寂しい気分になった。

「でも僕はいいなあって思ってました。子ども時代のいい思い出というか」


「夢を壊したんならゴメンな。誰かの思い出になったんならマンザラでもないな。自分自身、子ども時代の腹抱えて笑ったコメディに憧れて始めた事なんだから」


「そうなんだ」


「ああ。だからもし君が面白いと感じたのなら、その時の夢と情熱の残りカスが僅かでもあったんだろ」


「走るのはいつから趣味だったんですか? 市民マラソンみたいなのに出てるとか?」


「芸人辞めてからだね。ゴール決めてやってた反動で、計画性のない事をやってみたくなってね。だからどっかの手のかかったマラソン大会みたいなんには出る気ないね」


「計画性のない事? 毎日、朝と夕方にちゃんと走ってるのに?」


「実はさ、朝も夕方もコースは途中から大幅に変わるんだ。テキトウにその時の気分ね。そして風景を楽しみながら走ってる。すごくそれが楽しくって、早くこんな風に生きてりゃ良かったって後悔してる。映画だってドラマだって、本当に面白かったら今全体のどこら辺かなんて考えもしないで、気がついたらエンドロールに入ってるもんだしな」


「そんなもんですかね」


「がっかりしたろ?」


「いいえ。今日、仕事をサボってここまで来て良かったって思ってます」


「サボったのかよ。 まだ間に合うんじゃないの? 今、何時だっけ?」


「もう十時半ですよ。もういいんです。ところで腕時計しているじゃないですか?」

 秀人はシュートの左手首にしてある大きな腕時計を指した。


「これか? 残念ながら止まってる」


「え?」


「これさ、若い頃センパイの芸人さんにもらったもんで、もう壊れて止まってるんだ」


「プレゼントされた物だから、してるんですか?」


「若い頃にはね、バカにしてたんだよ。この時計も、その時代遅れのセンパイ芸人も。こんな安もんしか後輩にプレゼント出来ないんだ、とかね。でも年をとるに連れ、くれたセンパイの偉大さに気付いてこの時計の良さも分かるようになったからいつも手放せなくってさ」


 ――僕の職場にもあるんですよ。動いたり動かなかったりの柱時計が……――

 秀人は心の中で呟いたが、まるで聞こえていたように相手が言った。


「厄介だろ。でも今に分かるよ、こういう時計を大切にしたくなる気持ち」


 秀人は、ローズガーデンのホールにある柱時計を今度見る時、以前とは違った思いで見る事になるだろうと思った。


「じゃ、君またな。この近くにある知り合いの店に顔を出して帰るよ」


「ええ、あの……やっぱカッコイイなって思いました。違うなって。ファンで良かったです」


 その言葉に彼は笑顔で応え、去って行った。



 ☆



 秀人の日常は表面的には変わらない。ただ色々な変化があっていた。

 

 いつも何に使うかも決めず編み物を延々と続けていた老婦人はストールを完成させていたし、ギターの練習をしている男性は、いつものメロディーの冒頭から進んでもうサビに入っていた。

 そして、施設で飼われているネコは、最近少しだけ秀人にじゃれてくる


 元同級生の健太とも少し冗談を言い合えるようになり、そう言えば小学生の頃は一緒にバカやったり、楽しく遊んだ事があったのを思い出した。

 人生のスピードが急に速くなってきた気がした。自分の体内時計もあの柱時計並みに気紛きまぐれなのか、と思った。時間が止まったように感じる時もあるのに。

 

 あの芸人さんならこう言うかもしれない。

 ――それはそれでいい。任せなよ、時の気紛きまぐれに――

 

 これは夕陽が沈む時はあっという間に感じられる法則と同じかもしれないしな。


(終)

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