さよなら終着点

尾八原ジュージ

さよなら終着点

 21回目のブザーはやはり虚しく運転手の耳を通過したらしい。俺の直観がこれ以上はヤバいと告げていた。大腸がギュルググググと不穏な音をたて始めてから、すでに小一時間が経過している。俺は何度も降車ボタンを押したが、運転手はさっぱり反応しない。

 走る路線バス。乗客は俺ひとりだけ。いっそ漏らしちまっても俺と運転手だけの秘密にしてもらえば……なんて耳元で悪魔が囁きつつ、でも一応良識ある大人としては「トイレ以外の場所でウンコしたらダメ」という価値観を捨てられない。だからこうして降車ボタンにすがっているのだ。

 しかしなぜ俺は無視されているのだろう。運転席を確認しに行きたいのはやまやまだが、今立ち上がったらシートでかろうじて抑えられている俺の肛門がうっかり開くやもしれず、かといって「すみません!」なんて大声を出したらやっぱり開くやもしれず、身動きが取れない。もうブザーを押すしかないのだ。

 スマホで誰かに助けを乞うことも考えたが、走行中のバスに乗っている奴から「助けてくれ」と連絡を受けたところで何ができるのか。バスジャック等ならともかく、俺はただ排便がしたいだけなのだ。警察に通報されたりしては困る。

 ああ家が恋しい。長らく取り組んでいた仕事がひと段落ついてひさしぶりに手に入れた休日、おとなしくおうち時間にすればよかったのだ。さすればいつでも我が家のトイレにいけたであろうに、わざわざバスに乗って映画を観に行った俺が馬鹿だった。ソロ映画鑑賞しますなどと気取って家を出たのが遠い昔のようだ。しかもそのホラー映画はとんだ駄作だった。いいことなどひとつもなかった。

 そして今、未曾有の危機が俺を襲っている。ただでさえ大したことない存在なのだから、これ以上俺の尊厳を傷つけるのはやめてほしい。いや今だってそんなに尊いわけじゃないからいいじゃん……なんてこれは悪魔の囁きだ。いよいよ本格的にいけない。一応それなりの社会的地位もあるのに、これはまずい。

 おおバスよ停まってくれ。できればコンビニなどの近くに。俺の終着点、安らぎに満ちた場所に。

 その時、突然前方から「ウオォーーー!!」と獣のような雄叫びが聞こえた。

「何で終わっちまったんだ! 『パンチラ大戦争』!!」

 運転手はむせび泣いていた。「頑張った私と読者と仲間たちにお疲れ様! じゃねえんだよ! もっと頑張ってくれよ!」

『パンチラ大戦争』。おお、それこそは俺が『週刊メリケンサック』で五年間にわたり連載していた漫画ではないか。この度無事完結したあの漫画の連載終了を、ここまで嘆く者がいたというのか。乗客の存在を忘れるほどに、彼は。

 俺の目には熱い涙が溢れた。思わず立ち上がり、

「君! 俺は作者の」

 そう叫んだそのとき、俺の括約筋が(もう、おしまいでいいよね)と呟いた気がした。違う。ここはまだゴールじゃない。その思いは届かず、一瞬ののち爆発にも似た音と共に、異臭がバスの中を漂い始めた。

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