第4話 挨拶は元気よく

 「――ちゃん、お兄ちゃん、起きて!」


 夢心地の中、僕の布団は勢いよく剥ぎ取られた。四月と言っても朝晩の気温はまだ寒い、体温が無くなるのを防ぐように僕は丸まった。


 「もう起きてって! 遅刻しちゃうよ」


 その一言で漸く、はっきりと目が覚めた。僕は慌てて時計を確認すると、七時四十分を過ぎた所だった。家から学校までは、急いで三十分は掛かる。八時には出ないと遅刻だ。


 既に妹は制服に着替えており、呆れた様子で僕の部屋を後にした。


 急いで、僕は制服に着替えて洗面所で身支度を整えた。昨日床屋さんで貰ったワックスをつけると、フルーツ系の良い香りが漂う。


 鏡で確認しながら先日の事が夢ではない事に胸を撫でおろした。


 それからリビングへ向かうと、母さんが既に食器を洗っている所だった。


 「蓮ちゃんが寝坊だなんて珍しい事もあるのね」


 母さんの言う通り、僕は今まで寝坊した事は一度もなかった。中学時代では、人知れず皆勤賞を取ったほどだ。


 「ほんとだよ。折角、朝食作ったんだから残さないでよ。あっ、今日のお弁当靴箱に置いてるから忘れないでよね。じゃあ、愛は行くから」


 妹はそう言い残して、颯爽と通学していった。朝食を作ったと言っても目玉焼きとウインナーを焼いただけの簡単な朝食。それを急いで口に放り込んで、予め注いでいた水で無理やり流し込んだ。


 「行ってきます」


 僕は食器を流しに置いて、靴箱の上に用意してある妹お手製弁当を手に取り、足早に玄関を飛び出した。腕時計を確認すると、八時七分と刻まれている。


 自転車に跨り、住宅街を抜けて坂本さんの喫茶店を通り過ぎ、学校前を遮る大通りへと出た。何の変哲も無い大通り、この信号機が切り替わらない事に焦りを感じながらも、どうにか予鈴前には門を潜る事が出来た。


 僕の通う公立秋留あきとめ高等学校は、校舎の老朽化が進んでいたため取り壊されて数年前に、地元の建築家により一新された。正門を入った右手に、先生達が勤務する職員室と校長室、会議の為の部屋や来賓の為の応接室等を纏めた本館棟がある。左手には大きなグラウンドと体育館があり、運動部員は朝練終わり、教室に向かう姿が見て取れた。そのまま、真っ直ぐ抜けると教室等が正面にあって傍に学年毎に駐輪場がある。


 その他にも、科学室や文化部の部室を兼ねた特別棟と図書館棟、食堂がある。一般的な高校には概ね存在する施設だと思う。


 駐輪場に自転車を止めた僕は、教室に向かった。引き戸の前で僕は一度呼吸を落ち着かせる、昨日読んだ雑誌にも書いてあったけど、とにかく笑顔で明るく挨拶が大事なのだとか。


 意を決して戸に手を掛けた。


 「おはよ――」


 そう言い掛けた所で僕の声は、予鈴に飲み込まれた。近くで気付いた何人かは、おはようと返してくれたが、急に恥ずかしくなりそそくさと自分の席に着いた。


 席に着くと、じんわりと額に汗が滲んできた。急いで登校したからか、恥ずかしさなのかは判断できなかった。


 少し遅れて、担任である田中進たなかすすむ先生が入って来た。この学校はクラス替えが無く、田中先生はずっと僕達の担任だった。田中先生は、新任四年目で一年ほど三年生の副担任を経験して、二年間は一年の副担任をしていたらしい。一年生から通しで担任するのは、僕達のクラスが初めての事だと言うのは印象深かったので覚えている。


 「入学式の後にも挨拶したが、改めて三年間君達の学校生活を共にする担任の田中進だ。早速だが、来週からクラスの親睦を深める為に、オリエンテーション合宿がある。そこで、班分けをするにあたり、学級委員を選びたいと思う。あー、他にも保健係とか色々決めなくてはいけないが取り合えず追々で良いか」


 先生は若くて、少しばかり適当な所がある。良く言えば、融通が利くと言った方が良いか。その緩さゆえに生徒に人気が出るのは早い方だった。一部の生徒からは進君と言うフレンドリーな愛称まである。


 委員か――。以前の時は、特に委員には所属していなかった。別段、これと言ってやらなかった理由は無い。ただ、周りの流れに身を任せた結果そうなっただけだった。


 続けて先生は話し出す。


 「まぁ、取合えず学級委員に立候補したい奴はいるか? 男子、女子の一名ずつだぞ」


 先生の呼び声に、クラス内はざわざわと騒めき立つ。


 突然、後ろから肩をちょんちょんと叩かれて、僕は振り返った。


 「よっ。佐野君。教室入って来た時のあれ、ある意味タイミング良くて笑っちゃたわ」


 「多葉田君――。見てたんだ、恥ずかしいからやめてよ」


 僕を振り向かせたのは、後ろの席の多葉田暁彦たばたあきひこ君だ。彼は先程の光景を思い出して笑いを堪えている風だった。僕に掛ける第一声がそれだとは、言い出したくて堪らなかったのだろう。彼自身はこうやって面白可笑しくしているけど、決して悪気があってしているわけでは無い事は前の高校生活において理解している。要するにお調子者なのだ。その性格ゆえに、誰とでもすぐ仲良くなるのが得意みたいだ。


 以前の僕との関りは、他愛のない会話程度で、遊びに行くといった行為も無かった。


 「俺の事は暁彦って呼んでくれ。小・中学の時からずっとそう呼ばれてるんだ」


 「分かった暁彦君。それよりも今は学級委員を決める時間だよ」


 「そうだなー。誰が良いかなって言っても皆の事まだ良く分からないからなー」


 確か前の高校生活の時は、女子の方は新入生代表で挨拶を務めた海崎さんが推薦された。男子の方は、正に僕の後ろの席に居る暁彦君が誰も居ないなら俺がやると言い出して、決まったはずだ。


 「なんだ? 立候補いないのか? 先生が適当に決めちゃうぞ」


 先生が立候補者が出ない事を見かねて煽って来る。この文句は先生あるあるのキーワード上位に食い込むフレーズだ。などと、くだらない事を考えていると聞き覚えのある声が聞こえて来た。


 「先生ー、女子の方は、夢莉が良いと思います」


 海崎さんの友達の友原さんがはっきりとした口調で推薦していた。海崎さん自身は、恥ずかしいからやめてよと小声で訴えているのも関わらず、友原さんは手伝ってあげるからと丸め込んでいる様が見て取れた。


 「じゃ、女子は決まりで良いな。男子の方はどうだ―?」


 先生はここぞとばかりに海崎さんに対して確定の烙印を捺したのだった。


 このままいけば、男子の方は暁彦君が担当する事になるだろう。だけど、僕はやり直すチャンスなんだ、その為に髪形も整えて、雑誌も熟読した。後は実行あるのみ僕はここで変わるんだ。


 「先生!」


 二つの声が重なったように聞こえた。僕は声が聞こえた後ろに振り返ると、同じ様に手を上げている暁彦君がいた。

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