ポテトサラダ

多聞

ポテトサラダ

「ポテトサラダくらい家で作れよ」というツイートを見て以来、ポテトサラダが食べたくて仕方ない。じゃがいもは家にあったはずだ。足りない具材を思い浮かべながら、二十四時間営業のスーパーに入っていく。セール品がことごとく売り切れていて残念。


 静まり返った部屋にただいま、と言ってから電気を点ける。冷蔵庫の横に置いてある段ボールからじゃがいもを取り出すと、芽が成長しきっていた。まあいい。少し洗ってから、じゃがいもに包丁を入れていく。完璧に剥く必要はない。ちょっとぐらい皮が残っていても大丈夫、という意識でやらないと気が狂ってしまう。芽さえ取れていればいいのだ。水を張った鍋に、可食部が少なくなったじゃがいもを放りこむ。沸騰するまで放置しておこう。

 その間に、ハムとキュウリを細切りにする。半分に切ったキュウリを前にして、私は我に返る。キュウリを入れる意味とは、一体何なのだろう。水っぽいし、無駄にしゃきしゃきしてるし、デメリットだらけではないか。メリットといえば、色合いがよくなることぐらいだろうか。いっそのこと抜いてしまおうかと思ったが、ハムのみのポテトサラダは寂しすぎる。味がしないように、細く細く切ろう。

 じゃがいもを茹でていた鍋が、ぼこぼこと音を立てている。私は慌てて火を切ると、じゃがいもをざるに上げた。つまようじが刺さるから、火は通っているでしょう。ボウルに移しかえて、いよいよじゃがいもを潰す工程だ。間違っても食感が残らないよう、フォークも使っていく。

 ここまできたら、できあがったも同然だ。まず塩を好きなだけ振ったら、ハムとキュウリを満遍なく混ぜる。緑が多いな、と思ったら間引いてもいい。いい感じになったら、必要最低限のマヨネーズを入れよう。マヨネーズの味しかしないポテトサラダなど、ポテトサラダではない。じゃがいもの味が感じられるような量にすることが、何よりも大事なポイントだ。コショウは思う存分入れるのがよろしい。私のポテトサラダは、塩とコショウで成り立っている。


 できたてのポテトサラダを立って食べていると、玄関からただいまという声が聞こえてきた。食べながら出迎えると、当然のようにポテトサラダをせびられる。私は一旦キッチンに引っこむと、一人分のポテトサラダを皿に盛った。これでもかというぐらいマヨネーズを混ぜてから出すと、特に文句もつけず美味しそうに食べている。

きっと大多数の人にとっては、マヨネーズ多めのポテトサラダが当たり前なのだろう。私が少数派なんだ。分かっているつもりだったが、どこか釈然としない。のんきにおかわりを要求するこの人は、どのポテトサラダも食べられるだろう。余計な具材を入れた居酒屋のポテトサラダも、スーパーの総菜のポテトサラダも、私が作ったポテトサラダ(マヨネーズ増し)も。私だって、他人が作ったポテトサラダを食べてみたい。じゃがいもの味しかしないポテトサラダが、もっと広まればいいのに。

気がつくと私は、あたらしく盛りつけたポテトサラダをスマホで撮っていた。斜め上から見ると、より美味しそうだ。この写真に、「♯じゃがいもの味しかしないポテサラが好きな人RT」とタグを付けて投稿する。広いネットの海で探せば、一人ぐらい同士が見つかるだろうか。

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