8章 その2 一日のおわりに②

「驚かせてしまったようで、申し訳ありません。随分と集中されていたので、そっとしておこうと思ったのですが……どうやら道に迷われているようでしたので」

 柔らかく微笑むマズロー。何もかも見透かされているような気分になり、ミナは目を伏せた。

「司教は、こちらには何を?」

「司教が教会にいるのは当たり前ではありませんか?」

「あ……」

「はは、意地悪い物言いになってしまいましたね。告解を終えて、ちょうど出て来たところです」

 信仰上の悩みや日常生活の問題など、大小様々なことを信徒が司教に相談し、助言や忠告を受けることを告解と呼ぶ。どの教会にも大抵はそれ専用に部屋が設けられており、司教の予定が空いている時はいつでも申し込むことができる。

「町の皆さんは今、不安の真っただ中にいます。そのため希望者が多いのですよ。先ほど全員の告解が済んだのですが、結局、今日も三ツ鐘を過ぎてしまいました」

 ミナは思わず声を上げていた。じき夕方ではないか。随分と長い祈祷になってしまったようだ。

「そして、あなたも今、迷いの中にいるようにお見受けします」

「……はい」

「どうです? 私でよければ話を伺いましょう」

 迷った末に、ミナは彼に従った。

 三人のことを話すつもりはない。罪と罰に対する彼の考えを聞いておきたかったのだ。信仰の鬼とセラは言っていたが、自身が引き取って育てた子どもたちに対してならば、その罪を許すこともあるかもしれない。ちょうど、サットンがミナにしてくれたのと同じように。

 告解室は教壇右手の扉の奥にあった。小テーブルと椅子が一脚あるだけの部屋で、二人がようやく入れる大きさしかなかった。

 ミナに椅子を勧め、向かいに車椅子を移動させるマズロー。燭台に火を灯し、膝の上で手を組む。

 ろうそくに照らされた彼の手は節くれ立っており、聖職者というよりは労働者のそれだった。左の手首には、鮮やかな赤痣が刻印されており、彼が加護持ちであることを示している。ふと、薬指に指輪が青く光っているのにミナは気付いた。台座は装飾のない簡素なもので、その上に瑠璃石がちょこんと載っている。

 ミナの視線に気付き、マズローは「ああ」と微笑んだ。

「これは私のお守りです」

「お守り、ですか」

「ええ」

 慈しむような手つきで指輪をなでるマズロー。その目は陶酔したようにとろんとしている。

「あの……」

「ああ、すいません。これについての話をしてもいいのですが、今はもっと別にすべきことがありましたね。どうぞ、あなたの迷いをお聞かせください」

 そう言うマズローは、すでに聖職者の顔に戻っていた。

 ミナはまず、エリスについて確認を取った。

「ええ、ノラの言う通りです」

 マズローは迷いなく頷いた。

「おかしくなったのは熱が引いてからですね。まだ完治していないのだろうと思っていたのですが……まさか事件と関係しているのですか?」

「まだ、分かりません」

 正直な気持ちだった。自分の推論に彼女はまだ確信を持てずにいる。

 マズローは黙って次の言葉を待っている。この話を続けるとぼろが出そうだ。少考の後、ミナは一つ質問を口にした。

「マズロー司教、人はどうして罪を犯すのですか?」

 セラたちが罪を犯してしまったら、どうしますか――本当は単刀直入にそう尋ねたかったが、いくらなんでも感づかれてしまうだろう。外堀を埋める質問をするほかない。

「なるほど、なるほど」

 質問内容を味わうように、マズローは何度も深く頷いた。

「ミナ審察官。あなたの言う罪とは、どういうものですか?」

 改めて問われ、返答に窮する。当たり前のように考えていたが、いざそれを表現するとなると言葉が見つからない。

「難しく考える必要はありませんよ。聖篇にすべてが書かれています。神が罪として定めているのは、偽証だけです」

「ということは、それ以外は罪ではない?」

 司教の首が横に振られる。

「いいえ。よろしいですか? 偽証が罪なのですから、偽証せざるを得ない行為はすべて罪なのですよ。殺人、強姦、傷害、詐欺、窃盗、幇助――それらが罪なのは法があるからではなく、正直に神の前で告白することができない行いだからです。黙秘したり誤魔化したりせざるを得ない行為であるから、これらは罪なのです」

 その解釈についてはミナもよく知っている。ミト教徒の間で一般に浸透している考えだ。

 だが、彼女はそれに納得できずにいる。母が辿った運命と同じように、正直に生きていたとしても、誤解によって裁かれてしまう場合がある。そのことについて、目の前の聖職者はどう考えているのだろう?

「では、どうして人は罪を犯すのか」

 ミナの思いをよそに、マズローは続ける。

「聖堂に篝火がありますでしょう? そう、恒炎です。この炎は物理的に消えることがありません。ただし、およそ一年で燃え尽きてしまいます。ご存知のように、加護は一度に使える回数や持続期間に限りがあり、恒炎の場合はそれが一年だからです。だから、その前に灯し直す必要がある。それがあって初めて、炎は我々を照らし続けてくれるのです」

 『恒炎』の加護を持つのは教皇庁にいる大司教の一人で、彼は一年かけて国内の教会を巡り、消える前に火を灯し直している。

 付け加えると、この加護はその家系に代々受け継がれる。加護を持つ者が死ぬと、その血を最も濃く受け継いだ者へ新たに顕在するのだ。そういったケースはごく稀ではあるが、ほかにもいくつか確認されている。

 司教の視線が下へ落ちる。その先にあるのは無数の疵がついた、けれど十分に磨き上げられた大理石の床だった。

「『恒炎』だけではありません。例えば、この床もそう。日々休むことなく清掃を続けることで、その清浄さを保つことができるのです」

 先ほど指輪を見つめていた時と同じような、恍惚とした表情が浮かぶ。

「信仰とはそういうものです。それは我々に道を示す光を与えてくれる。けれど、信仰の火を灯し続ける努力をしなければ、あっという間に掻き消えてしまう。そして、火が消え道を失った者の行きつく先が、犯罪です」

 マズローが顔を上げた。その目が鋭く光る。

「人はどうして罪を犯すのか? それは、信心をまっとうできないからです。信心をまっとうすれば、人は罪を犯すことはないのです。不信心者が罪人になるのです」

 ミナの心が即座に否定する。不信心と犯罪はまったく関係がない。

「いくら信心があっても」硬い口調で反論する。「どうしようもない場合もあるのではないでしょうか。例えば、騙されて犯罪に手を貸してしまった人は? 人には間違いを犯すことすら許されないのですか?」

 明らかにこれまでより強い語勢だったが、マズローは気にした様子もなく、ゆっくりと頷いた。

「確かに人は間違いや失敗を犯します。だからこそ、信仰に生きるのですよ。信仰をまっとうすれば、聖篇に則って行動すれば、間違いを犯すことなどなくなるのですから」

 ミナは頭が痛くなった。

 人は間違いを犯すものだと主張しても、信仰に生きればそんなことはなくなると返される。けれど、信仰に生きてなお間違いを犯してしまったら、今度は信心が足りないと糾弾される。彼が言っているのは、出口も救いもない堂々巡りの論理だ。そして、そのことに本人はまるで無自覚でいる。

「罪を犯すのは、不信心の証なのです。そして、不信心者には罰を下し、その魂を浄化しなければならない。当然のことです」

「それが自分の大切な人だったとしても、同じことが言えますか?」

「かつて、私は妻を裁きの門に送りました」

 その落ち着いた言葉に、ミナは息を呑む。

「詳しいことは省きますが、妻は罪人を匿ったのです。幇助ですね。騙されていたのだと妻は言いましたが、私は審察官へ引き渡しました。彼女は泣きながら抗いましたよ。それで分かったのです」

 つまらなそうに、実につまらなそうに司教は言った。

「この女は不信心者だったのだと。だから罪人などに手を貸したのだと。信心深い人間だと思っていたのに、本当に残念でした」

 ――違う! そう叫びたかったが、言葉は出なかった。マズローの瞳にみなぎる情念に圧倒されたのだ。そこに浮かんでいたのは、自らの行為に対する誇らしさと喜悦だった。

 ミナは気付いた。二人の話は交わっているようでいて、交点を結んでいない。いや、同じ場所に立ってすらいない。彼女の前にいるのは、信仰に狂った一匹の鬼だった。

「私が聖職の道を志したのは、自分は妻とは違うのだと証明するためです。聖篇を尊び、信心をまっとうする。うんうん、我々がすべきことはそれだけです。そうすれば、罪など生じるはずがないのです。例えばこのサウスウェルズでは私の着任以来、今回の件が発生するまで罪を犯した者は一人もいません。うんうん、町の者が皆、神の御心のもとに正しく生きているからです。それなのに――」

 細めた司教の目に一瞬激しい憎悪の火が立ち上り、消えた。

「だから、あなたが今すべきことは一つです。早く罪人を、不信心者を捕まえる――これだけです」

 その口から、ふっとため息が漏れる。

「私も調査に加わりたいところなのですが――犯人を見つけたら、一も二もなくその場で殺してしまいそうなので」

 マズローは微笑んだ。ろうそくの炎に隈どられたその顔は、この世ならざる化生のように見えた。

 ――無理だ。

 目の前の男は、決して罪人を許すことはない。

 司教、今かなり優しいから――セラはそう言っていた。その言葉通り、彼は聖職者として傷ついている者を導き、救おうとしているのだろう。だが、相手が罪人だと分かった瞬間、不信心者だと声高に断罪し、率先して処罰しようとするだろう。

 ふと、ミナの脳裏に一つの光景が浮かんだ。

 仄暗い聖堂中央に佇むマズローと、その眼前で炎を上げる修道女。

 そう、エリスを殺したのはセラたちではなく、彼なのではないか?

 食料を盗んでいたのはやはりエリスで、死体が焼かれていたのは罰を与えるためだったのではないか。

 だが、彼はきっぱりと犯行を否定している。

 ――いや。

 目の前の男は、本物のマズローなのだろうか。

 十五年前、彼は死んだ前司教の代わりにこの町へとやって来た。もし、別人がマズローになりすましていたのだとしたら――

 もちろん、そんなことはありえない。

 彼は加護を持っているし、はっきりとマズローを名乗っているのだから。本人であるのは間違えようのない事実だ。けれど一度浮かんだ情景は頭にこびりつき、一向に追い払うことができなかった。

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