「数式」「チョコ」「嫉妬」

@fluoride_novel

第1話

 あっ先輩おはようございます。昨日教授に頼まれていた解析終わりましたか? あとそうだこれ、ほら逆チョコというか、最近はあんまり女が男にあげるというよりバレンタインって感謝の意を伝えるって感じじゃないですか。先輩「甘いの嫌い」って言うと思ったんでちゃんとカカオ75%の選んできましたよ、まぁいつも何かとお世話になっているので、たまには。



 昨晩から何度も心の中で反芻した台詞をもう一度リハーサルした。研究室の前で深呼吸する。いつも通りの、何食わぬ顔を無理矢理作って扉を開く。



 「え~! 先輩って、同棲している彼氏さんがいたんですか!?」



 終わった。チョコを渡すどころか一言も発することもなく、僕の初恋は同期の女子学生の甲高い声で終了した。口元を抑えて恥ずかしそうに顔を赤らめる先輩と、先輩を囲む他の研究室のメンバーたちの隣を、「おはようございまーす」と無気力な僕が通過する。落ち着け平常心を保ていつも通り何かとつけてだるそうな僕を演じろ。


 日曜日の昨日、背の高いイケメン男性と先輩が手を繋いで駅前を歩いているのを目撃したのが先程僕を殺した同期だった。そのことを先輩に問い詰めてみたところ、その男性がまぁもちろん先輩の彼氏さんであって、しかも大学二年生の時から付き合っているから修士二年の先輩は四年近く付き合っているという。同棲も一年前からしていて、結婚も視野に入れていて彼の両親にはもう会ったのだという。


 というのは二月十四日の夕方、先輩が帰った後に朝の喧騒の中にいた同期の男子に聞いた。先輩が自分から惚気話をしているのは絶対に聞きたくなかったから、今朝は挨拶だけして僕はそのまま大学の図書館に籠った。チョコレートブラウニー作るって先輩張り切っていたけれど、あの人料理できるのかなぁイメージできないわって同期が椅子の背もたれにのけぞりながら言う。甘いものが嫌いな先輩が、彼氏さんのために甘さに咽ながら今頃一生懸命チョコ溶かしているんだろうなぁ、とか考えたら気分が猛烈に沈んだ。



 物理学科で僕より一学年上の先輩は、当時四年生で研究室入りたての僕に研究のことや実験手法など、付きっきりで教えてくれた。教授に与えられた研究内容が似ていたため、使う機材や行う実験がほとんど同じだったからだ。


 先輩は黒髪のベリーショートで、サバサバした性格で、正直あまり女性といつも一緒にいるといった実感はなかった。面白いことがあったら廊下に響き渡るような大きな声で笑うし、何か上手くいかないことがあっても「まー何とかなるっしょ!」って流すことも多々あった。それでもって大体何とか毎回なっていたからすごいと思う。他の女子学生が昼食にパンとかサラダとか食べてる中で、先輩はパソコンの前でカップ麵をすすっていることが多かった。インスタも、かわいいカフェやケーキより、お店のラーメンの投稿が多かった。


 先輩はディスプレイに映る、無限に続く数式と向き合っているとき、「あっそうかそういうことか」とか、「は? なんだよこれわけわかんないし」とか独り言がすごかった。てっきり数式が恋人な人だと思っていたのだけれど、僕の予想は大いに外れた。そういえば実験で予想していた結果とは全然違ったときにも先輩によく相談していたな。色々思い出して何だか萎えた。


 先輩は、性格はサバサバしていたけれど、毎日メイクもちゃんとしていて、アクセサリーも欠かしていなかった。白い肌に、ちょっと強気の赤いリップがよく似合っていた。高身長が映えるようなファッションや靴をいつも身につけていて、いや待てよくよく考えたらそんな人が彼氏いないことがあるのか、僕は一体何を考えていたんだ……。



 家に帰って先輩のインスタを眺めながら、あーこのラーメン屋きっと彼氏さんと行ったんだろうな、気分最悪だな、と思いながらふて寝した。



 バレンタインから1週間後、先輩が研究室を休んだ。昼を過ぎても来なかったため、流石に寝坊ではなさそうだった。連絡なしに研究室を休むことがなかったため、研究室の中が少しざわついていた。先輩の同期がLINEしたが、その日のうちに返事がなかった。


 僕も不安で先輩の家に様子見に行きたかったけれど、先輩の家も知らないし、先輩の彼氏さんと顔も合わせたくなかった。「まー何とかなるっしょ!」って先輩が言っていた声を思い出して、僕もまぁ何とかなるだろうと自分を思いこませた。


 次の日、どうやら先輩の彼氏さんが浮気して、それが昨日休んだ原因だったらしい、という噂が僕の耳に入ってきた。結局先輩は次の日も姿を見せなかったけれど、その次の日には何事もなかったかのように研究室に来て、数式と一対一で格闘して、僕と事務的な会話をした。その日少しだけ先輩の目が腫れているように見えた。



 それから数週間経って三月十四日、ホワイトデー、先輩は再び研究室をさぼった。今度はすぐにLINEの返信が来たらしく、明日には研究室行くとのことだったのでとりあえず安心した。


 その日はタスクが溜まっており、その消化をしていたら気がつくと研究室に僕一人だけだった。外はもう暗く、寒いのやだなぁと考えていたら、スマホに通知がきた。先輩からのLINE通話だった。通話は初めてだった。


 「――もしもし?」

 「うわあああ助けてお金なくて帰れなくなっちゃったあああ」


 先輩の大声に思わずスマホを耳から遠ざける。電話越しでもアルコールの匂いがしそうなくらい先輩は酔っぱらっていた。僕は実家生で、父親からのお下がりの車で大学に通っていた。それを先輩が知っていて、お酒飲んでたらきっと、うわー交通費なくなっちゃった、あっ研究室の後輩車持ってるじゃん乗せてもらおうって算段なのだろう。僕の車に乗ったことなんてないのに、酒が入ってても頭が回る先輩である。


 「彼氏さんに連絡すればいいじゃないですか」

 わざと僕がそういうと、「馬鹿あああああ!!!」と返事が来て、流石に申し訳ないことしたなと思い、とりあえず先輩がいる繁華街の位置を教えてもらった。


 これから僕は、酔いつぶれた先輩を彼氏面で迎えにいく。



 「おーそーい!!!」

 「これが僕の全力ですよ勘弁してくださいよ!」


 先輩は繁華街の出口でスマホを操作しながら立っていた。酔いは電話したときより覚めているみたいだったけれど、吐息のアルコール臭が僕の鼻を突いた。僕はあまり酒が得意ではない。アイシャドウのラメが、泣いたせいで頬にまで広がってしまっていて、それがスマホの光に照らされてキラキラ輝いていた。


 「先輩の家まで送っていけばいいんですよね?」

 「……ん」

 「――ちょっとドライブしますか?」



 どこに行くわけでもなく、教えてもらった先輩の家の周囲をぐるぐると僕は車を走らせていた。助手席で先輩は最初黙っていたけれど、急に声のトーンを無理矢理普段通りにして今やっている研究関連の話をし始めるから、「僕今日もう疲れて研究のこと考えたくないんでやめてください」って言ったら再び沈黙が流れてしまった。


 「――彼氏に浮気された」

 「それ聞きました」

 「一年前にもあった。知らない女から『早く会いたいな』ってLINEが来てた」

 「最低じゃないですか。何で別れなかったんすか」

 「――だって、好きだったから」


 『だって好きだったから』。そんな言葉が、あのあっけらかん、はつらつとした先輩の口から出てくるなんて僕は思ってもみなかった。


 「……それで、この前は?」

 「またその女からLINEが来てた。もう会うのやめるって、その時約束してたのに」

 「なんかそんな話、ドラマで見たことありますけどリアルであるんですね」

 「で、昨日、そこのホテルに二人で入ってくをの見た」


 先輩が指さした先に、きっと昨日の先輩の彼氏と浮気相手と同じ様に、二人並んで建物に入ってく影があって、「なんか……すいません」と謝ると「別に君は悪くないよ」と先輩に言われた。これで最後にしようって浮気相手には説明した、というのが先輩の彼氏の言い分らしかった。今朝は散々喧嘩して、先輩は家を飛び出して、一人で昼から、途中で友人らを呼んでずっと飲んでたという。


 「浮気、三回ですか」

 「まぁもっとしてるだろうね」

 「どうするんですかこの先」

 「――どうしようかねぇ」


 先輩は車の天井を見ながらそう呟いた。あんなに先輩を泣かせておいて、別れた方がいいですよ、僕の方が絶対先輩を幸せにしますよ、なんてキザな台詞、僕には言えなかった。



 「――ちょっとそこのスタバ入ってもいいですか? 僕奢りますから」


 そう言って車を停めて、先輩のリクエストも聞かずに僕は悔しくてちょっと泣きそうな顔を見せないように車を出た。車に戻ってきて先輩に買ったものを押し付けた。


 「え、何これ」

 「何って、どう見たってチョコレートフラペチーノですよ」

 「待って私スタバだとブラックコーヒーか無糖の紅茶しか飲めないし、てか私が甘いもの嫌いって知ってるのに!」

 「知っててホイップクリームとチョコチップとチョコソース追加でお願いしてきました」

 「はぁ!? 何それ最悪なんだけどどういうこと!?」


 「――だから、今日一番最悪なのは、このクリームとチョコマシマシのフラペチーノを後輩に無理矢理飲まされたってことにしましょうよ」


 僕がそう言うと、キレてた先輩が急にうつむいて黙った。無言でフラペチーノを受け取ると、やがてストローを口に加えてズコズコ飲み始めた。「甘すぎて、気持ち悪いんだけど」って、助手席で笑いながら先輩は泣いていた。僕は車を出して先輩の家に向かった。その間先輩は嗚咽を漏らしながらずっとチョコレートフラペチーノを飲んでいた。



 先輩に教えてもらったアパートの前につくと、「ありがとう何とか飲み切った」と空の容器を僕に差し出した。まさか飲み切るとは思ってなかった。


 「24年間生きてきて一番不味いもの今日飲んだわ、ほんと最悪」

 「それはお褒めに預り光栄です」

 「いや褒めてないっつの!」


 まだ涙の跡が残っている先輩がくしゃっと笑った。容器を受け取った僕は、代わりに鞄の中に1カ月眠らせていた箱を先輩に渡した。


 「これそういえば、まぁチョコなんですけど、甘くないやつなんでお口直しに」

 「えーまたチョコ!? 好きだね君~」

 「……まぁ、彼氏さんと、仲直りしたら一緒に食べてください」

 「なんだそれ~」


 といいながら嬉しそうにチョコを受け取った先輩は、「じゃあ、今日はほんとにありがとう。また明日、大学でね」と言うと車の中の僕に背を向けて階段を上り始めた。



 先輩はきっと彼氏さんと別れないんだろうなと思った。僕が好きな綺麗でかっこいい先輩は、あのクズで最低な彼氏と付き合っていたから、今の先輩がいるわけだし。きっと家の扉を開けると先輩の彼氏さんが慌てて飛び出してきて玄関先で先輩を抱きしめて、ごめん俺が悪かったもうしないからって言ったら、先輩はまた彼の腕の中で泣き出すんだろうな。そうして一晩身体を重ねたりしたら次の日には仲直り、先輩はちょっと元気になって、研究室でまた数式とぶつぶつ睨めっこするんだろうな。


 僕は信号待ちの間に、さっきスタバで一緒に買ったブラックコーヒーを口に入れた。


 「――苦すぎ、気持ち悪」


 クズな先輩の彼氏のようにはなりたくないから、あまり嫉妬しないけれど、先輩をちょっと元気づけたチョコレートと、いつも先輩に眺めてもらっている数式に、僕はちょっと嫉妬した。

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