ナイス・トライ

悠井すみれ

第1話

 体育の授業でバスケが始まる時、武井たけい先生はこともなげに言った。


山口やまぐち君は、ゴールに入らなくてもリングに当たれば一点、にしましょう」

「はあい」


 四年二組のクラスメイトも、先生の提案にあっさりと頷いた。ズルいとか不公平だとか、そんなことは誰も言わなかった。特別ルールがあってもなくても結果は同じだと、みんな知っているからだ。悠希はるき──山口悠希にボールが回ってくることなんてない。そもそもチームに入れたら厄介者だ。運悪く同じチームになってしまったら、ほかの四人で頑張るしかない。悠希自身にだって、そんなことは分かっている。


「だから、山口君も頑張ろうね」


 分かっていないのは、先生だけだろう。ぽっちゃりしていて背も低い悠希が、どれだけ体育の時間を嫌っているか。扱いに喜んでやる気を出すどころか、どれだけ悔しく恥ずかしく惨めな気分を味わっているか。胸の中でぐちゃぐちゃと渦巻く嫌な思いを言葉にするのは悠希にはまだ難しくて、だから楽しそうに準備運動をするクラスメイトの中で、彼はひとり下を向いて祈り続ける。早く体育の時間が終わりますように、と。




 それでも授業の時間は決まっている。体育館の壁に掛かった時計を何度見ても、長針はごくゆっくりとしか進まない。せめて十分間の試合が終わって、観戦側に回れれば良いのに。いつボールが飛んでくるか分からない怖いコートから、出られれば良いのに。

 ぼんやりとよそ見をしていた悠希の横を、風が通り抜けた。いや、風だと思ったのはドリブルで速攻する敵チームと、それを追いかける味方チームの一団だった。


「ハル、邪魔っ!」

「ご、ごめ──」


 すれ違いざまに吐き捨てたのは、悠希と同じチームの木村きむらりくだった。サッカークラブに入っているという陸の俊足は、種目が違うバスケでも存分に発揮されている。

 陸の目は、もう悠希なんかではなくボールを一身に追っている。一瞬にして遠ざかったチームメイトの背を、悠希は一応は追いかけようとした。試合には関われなくても、やっているくらいはしないといけない。


「はあ、はあ……」


 やっとゴール下に追いつくと、ボールを奪い合ってぶつかり合う、運動のできる子たちの気迫が悠希を怯えさせた。授業とはいえ、同点の展開に両チームともが熱くなっている。手を伸ばし、身体を切り返し、その間にも声を掛け合う。目が回りそうな忙しなさに、悠希の身体は縮こまるばかり。腕は脇にぴったりとついて、ドッジボールの時みたいに完全に「逃げる」体勢になってしまう。


「あ──」


 なのに、悠希の前にボールが転がって来た。すごい子たちのせめぎ合いに押し出されて、コートの中にいても傍観者のはずの、何もできない運動音痴の彼のほうへ。


(どうしよう、どうしよう……)


 ボールを託すべき相手を探して、悠希はきょろきょろと周囲を見渡した。彼なんかがボールに触ってはいけないと思ったからだ。でも、恐ろしいことに一番近くにいるのが彼だった。足の速い陸でさえも、まだ一歩を踏み出したところだった。だから──もしかしたら、悠希が手を伸ばしてボールを拾うほうが、早い……かもしれない。


(リングに当てれば一点……)


 恐る恐る拾い上げたボールは、ひどく重く、硬い気がした。悠希にとってはボールはどこまでも馴染みがない怖いものだった。軽々と投げるほかの子たちとはまるで違って、爆弾みたいに思ってしまう。いや、実際爆弾かもしれない。ボールの行方を追っていたチームメイトも相手チームも、一斉に悠希を目指して走り出している。まるで彼が悪いことをしでかした犯人みたいに。


「ひゃ──」


 みんなの真剣すぎる表情が迫るのが、怖い。でも、同時に見えてしまう。ゴール周りががら空きになっているのが。きっと陸とかなら、ボールが吸い込まれるような綺麗なゴールを投げるのだろう。悠希にそんなゴールができるとは思えないけど──


(当てるだけで、良い、なら……?)


 今は同点。試合時間も残りわずか。悠希のゴールが逆転になるかも。もう二度とは来ないチャンスが来ている。緊張に心臓がどきどきとして、手が震える。運動音痴の癖に調子に乗って、とか思われるんじゃないかと怖い。でも、それでも悠希はボールを持った腕を掲げた。ぎゅっと目を閉じて。力いっぱい、ボールを押し出した。反動で、腕が痛いくらいだった。


 一秒、二秒。悠希の耳には何も聞こえなかった。ボールがゴールネットをくぐる気持ちの良い音も、リングに跳ね返される鈍い音も。それでも祈るように待つ悠希の胸を、ぺしゃりという情けのない音が潰した。ボールはゴールのはるか手前で床に落ちたのだ。


 ボールは相手チームに渡った。コートの反対側のゴールを目指して、九人が悠希を追い越していく。みそっかすにボールが渡ったのは何かの間違いだったとでもいうかのように、何事もなかったかのように。


「ハル、ナイス・トライ」


 いや──そうでは、ない。

 陸が、駆け抜けざまに悠希の背を叩いていった。仲の良い友達か、チームメイトにするみたいに。結局、悠希は点を入れられなかったのに。

 陸にとってはいつもやっているような何気ないことだったのかもしれない。サッカーでは、こうやって声を掛け合うのが普通なのかも。でも、悠希にとってはまったく普通のことではなかった。失敗しても、怒られも笑われもしないなんて。挑戦トライしただけで、褒めてもらえたのかな。それなら──ボールを、ほかの子に押し付けなくて良かった。勇気を出して、シュートして良かった。


「う、うん……!」


 陸の足はやっぱり速くて、悠希がやっと頷いた時にはもう反対側のゴール下でボール争いが始まっていた。

 さっきみたいな奇跡は二度と起きないだろう。それは分かっている。でも、陸に叩かれたところがいつまでも熱く、燃えるようだった。その熱が、悠希の背を押す。


 仲間たちを追って、悠希は腕を振り、足を踏み出して走り始めた。

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ナイス・トライ 悠井すみれ @Veilchen

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