旅の最果てに辿り着きし者

かきつばた

英雄への転身

 昼間なのに、空は暗い。立ち込めているのは雲ではなく、絶対の暗闇。魔に潜む者たちが侵略してきた証。


 村の入り口で、一組の若い男女が向かい合っている。同じくらいの年頃で、幼いころからずっと同じ時間を共にしてきた。

 簡素な服装に身を包む女とは対照的に、男の方はしっかり旅支度ができている。その背には、見るも豪奢な大剣。


 門の先では、王宮から来た兵の一団が控える。世界を脅かす魔王に対抗できる唯一の存在を探し、彼らは世界を巡ってきた。選ばれし者のみ抜くことができる聖剣を携えて。


「必ず、帰ってきてくださいね」


 女は男の目をしっかり見据えながら言った。

 そして一歩近づくと――


「……約束、ですよ」


 そっと唇を重ねて男の身体を抱きしめる。その存在を自らに刻み込むように、強く長く愛おしそうに。


 瞬間、男の終着点が決まった。


 もとより、魔王を倒して平和を取り戻す。其れこそが彼に下った至上命令。この村に戻れるのはその先のこと。

 決して、ゴールが近づいたわけではない。依然として遥か遠く、その道のりはぼやけたまま。


 けれど、塔が建った。天を突き抜けんとするほど巨大で、どうやっても見失いようのない。彼の身体にまっすぐに突き刺さる、絶対の寄り処――


 そして男は旅に出た。






 大陸一の強国、その玉座の間。集いしは国王ほか重臣十余名と麗しき姫君。

 全員の視線は中央に立つ一人の男に注がれている。背負う大剣が、この者の正体を如実に示している。


「もう一度尋ねるが、断るというのだな」


 その問いに男は強く頷いた。


 半月ほど前、世界を覆う瘴気が晴れた。すかさず、誰もが英雄の誕生を察知した。


 この国も例にもれず。送り出したかの若者が役目を果たしたと悟り、王はその褒美を熟慮した。

 結論は王位の譲渡。自分の娘と結ばせようと。


「……意志は固いようだな。して、これからどうする。また旅に出ようとでもいうのか」


 男は再び首を縦に振る。

 魔王は倒した。だが、それで彼の旅が終わるわけではない。終着点は、ここではないところにたしかに存在するのだから。


「一国の主より一介の旅人を選ぶか。まあ貴公はもともとこの地の人間でなし。そもそも留め置こうとするのが間違いであったな。ともかく、今ひとたび礼を申し上げる。よくぞ、魔王を滅ぼしてくれた」


 男は謝辞を述べ、その場を後にした。終わりの近い旅路に戻るために。


 それを追いかけて、玉座の間を飛び出す影が一つ。


「お待ちください、勇者様!」


 男が声に振り返ると、そこには王女がいた。息を弾ませ、その頬はかすかに上気している。


「わたくしも、連れていってくださいまし!」


 王女はなりふり構わず男に身を近づける。褒美の婚姻は王の一方的な取り決めではなかった。


 相手の真剣さを感じ取り、男は彼女にだけ胸の内を告げることにした。この国を去る本当の理由、旅の果てについて。


「……そう、ですか。故郷に待っている人がいるのですね」


 王女の肩が小さく震え、視線がわずかにぶれる。彼女は明らかに動揺を隠せないでいた。

 それでも、王女はしっかりと男の顔を見据えた。


「それでもどうか覚えてください。わたくしは勇者様のことを心の底からお慕い申し上げていることを」


 やや躊躇った末に、王女は男の手を両手で握る。目を閉じて、彼の幸福を祈るように。そこには、彼女の真なる想いも混じっていたのかもしれない。







 七年――それが男が偉業を達するのに要した年月。

 けれど、村の姿に大きな変化はない。記憶を辿って、男はひとまず村長の家を目指した。


 時折、道で村人とすれ違う。その顔に確かな見覚えはありながら、やはり誰もが男の記憶よりも年を重ねていた。

 それは相手の方も同じだろう。彼に積極的に話しかける者は皆無。ただ怪訝そうな視線を向けるだけ。


 村長の家が視界に入ったころ、男の目の前を幼い女の子が横切った。

 その横顔に、男はふと足を止める。


 今までとは違って、その子のことはまるで記憶にない。それもそのはずで、どう見ても七歳を超えているようではなかった。

 にもかかわらず、どこか懐かしさを覚えてしまう。絶対に知ってるはずはないのに、ずっと昔に会っているような錯覚。


 気を取り直して、男は再び歩き出した。さっきの少女の姿はもうどこかに消えていた。


「おお! 立派になったのぉ」


 村長はしっかりと男のことを覚えていた。懐かしむように目を細めて、暖かく偉業を成した村人を迎え入れる。


「この村からそんな人間が生まれるとはなぁ。――そうだ、メリィには会ったか? あやつもちょうど今、帰ってきてるところじゃぞ」


 浴びせられた言葉の一部に、男は眉をひそめた。不思議そうに首を傾げる。


「そうか。おぬしはまだ知らないか。四年ほど前じゃ。メリィが近くの街へと嫁いでいったのは。おぬしを式に呼べなかったこと、心底残念がっておったよ」


 男の瞳が静かに大きくなる。強力な衝撃が全身を駆け巡っていた。

 実際、男の耳にはもう村長の言葉は届いていない。話半分に相槌を打つだけ。頭の中を閉めるのは、彼女が結婚したという圧倒的な事実だけ。


 当然話が弾むわけもなく、ほどなくして男は村長の家を出ていった。

 そのまま当てもなく村の中を彷徨う。男の生家はもうない。幼いころに両親が他界し、以来ずっと彼女の家に世話になっていた。

 ゆえに、そこにも帰還の旨を告げに行く必要がある。しかし、まだ男は心の整理がついていなかった。


 帰ってきて――そう彼女は言った。男はそれを支えにして、今日までを必死に生きてきた。


 別に恋人同士だったわけじゃない。あの約束だって、結婚の約束でもない。

 それでも男は彼女を想っていた。いや、想ってしまった。あの別れの瞬間から。家族同然の存在が、また違うものへと昇華した。


 果たして、どんな顔をして会えばいいんだろう。

 思い上がりを恥じていた。かけがえのない存在を失った気がしていた。闇の中に放り出された気分だった。


 ずっと見えていたあの塔は、ただの蜃気楼でしかなかった――


「おかえりなさい」


 呼びかけられて振り返る。


 そこには彼女がいた。


 やや背が伸びて、すっかりあか抜けている。元々持っていた淑やかさには磨きがかかり、誰もが振り返るような美貌を手に入れていた。


 でも、一目で彼女だとわかる。身に纏う雰囲気は少しも変わっていない。それにどことなく昔の面影があって――男はたまらなく懐かしくなった。胸のもやが晴れていくようだった。


「戻って来ないと思ってました。貴方は手の届かない人になったのだ、と」


「……約束したじゃないか」


「約束――ああ、覚えていてくれたんですね。ダメ元で帰ってきて、本当によかった」


 彼女は小さく笑みをこぼす。どこか子供のように控えめに。すっかり大人になったにも拘わらず。


 二人の間にどこかほっこりとした空気が流れる。七年間の離別は確かに存在するが、この瞬間だけはあの頃に戻っているかのようだった。


「おかーさーん!」


 そこへ、一人の女の子が駆け込んでくる。そして、彼女の身体に勢いよくしがみついた。


 男がさっきちらりと見た女の子。すぐに、彼はあのとき感じた懐かしさの正体を悟った。こうして見比べれば、それは明らかだった。


「この子は?」


「ええと、私の娘です。――ほら、挨拶して」


「……こんにちは」


 女の子はおずおずと頭を下げる。全く見覚えのない男に対して、かなり警戒している様子だ。


「そうだ、お父さんたちにも伝えてきますね。行きますよ」


 そう言って、彼女は子供の手を引いて去っていく。子供の方は時々男を振り返りながら、母親についていった。


 幸せそうなその姿に、男は微笑ましい気分になった。あれだけ複雑な心境だったのに、彼女と再会した途端にすべてが吹っ飛んだ。

 なんてことはない。ただ男は信じていただけだった。約束を、旅の果てが彼女によってもたらされることを。


 こうして、彼女に迎えられたことで男の――この村の人間だった彼の旅は終わった。それは一種の区切り。新しい存在へと変わるための。


 政権を手にしたときに、男の運命は決した。この村で、幼馴染と共に穏やかに暮らし続ける。その未来は崩壊した。

 ここに至るまで、男がそのことに気づいていなかっただけ。村で暮らす名もなき一般人はもういない。


 これまでの過程は、すべて男が英雄へと至るまでの旅。その幕引きを担ったのが彼女。この一点においてのみ、男はようやくゴールに達したのだ。


 その手にたとえなにも残らずとも。ゴールとは終わりではない。また新しい旅を迎えるためのきっかけなだけ。


 男は腰を上げた。背負う大剣の重みをしっかりと噛みしめながら。


 そして彼は旅に出た。






 その後、男は伝承でのみ語られる存在となった。果たしていくつの旅を重ね、いくつのゴールに到達したのか。それは定かではない。

 けれど、確かに彼が存在したのは事実だ。世界の果てに刺さる聖剣がそれを悠然と語る。

 彼の者の旅路の果てはここにあり――

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